2.楽園の規律
合宿初日の午後。特設カフェスペースは、瞬く間に、まるでプロの養成所のような緊張感に包まれた。香月が最初に指示したのは、コーヒー抽出の根幹を成す、最も基礎的でありながら、最もプロの技術が問われる工程だった。
「初日のテーマは『一貫性と再現性』だ。君たちがテラスで一杯100円のコーヒーを提供する時、それは客から代価をいただくプロの仕事だ。プロとは、味覚の快感だけでなく、信頼を提供すること。それは、いつでも、誰に対しても、まったく同じ品質のものを、安定して提供できる技術と意識を持つ者のことだ」
香月は、まずエスプレッソの抽出におけるタンピングの精度に焦点を当てた。
「タンピングとは、コーヒー粉を均一に押し固める作業だ。この圧力がわずかでもブレれば、抽出ムラが起こり、エスプレッソはオーバーまたはアンダーエクストラクションになり、味は不安定になる。一流のバリスタは、圧力計を使わずとも、自分の体と感覚だけで、常に30ポンド(約13.6kg)の圧力を再現できる」
部員たちは圧力計付きのタンパーを使い、ひたすらコーヒー粉を押し固める練習を強いられた。それは、まるで筋肉の記憶を刻み込み、無意識下での動作をプログラムするような、単調で地味な作業だった。蓮は器用だが、連続する疲労の中では、精密な圧力を再現することに苦戦した。
「潮崎、今のは28ポンドだ。タンピング圧が低いと、水は抵抗なく流れすぎてしまい、過少抽出になる。味は水っぽく、酸味が強く出る。君のたい焼きが毎回焼き加減が違ったらどうなる? お客様への裏切りであり、テラス全体の信用を損なう行為だ。完璧を追求しろ」
香月は一切の妥協を許さない。彼女は、成功体験から生まれる慢心を徹底的に排除しようとしていた。
ハンドドリップを担当する真琴や蒼太にも、同様の厳しさが向けられた。香月はタイマーと精密な秤に加え、TDS(Total Dissolved Solids:総溶解固形物)計を用意し、抽出液の濃度を科学的に分析させた。TDS計は、コーヒーの味わいを決定づける固形分がどれだけ含まれているかを数値化する、プロの現場では必須の道具だ。
「泉、君の注湯スピードは安定しているが、コーヒー粉全体への水の分散に0.5秒のズレがある。このミリ秒単位のズレが、抽出のバランスを崩し、不快な雑味を呼ぶ。TDS計の数値が示す通り、わずかな不均一さで、理想の抽出率(18%〜22%)から外れてしまう。君たちが目指すのは、データで裏付けられた、冷徹なまでの品質だ」
真琴はデータ分析を得意とするがゆえに、自分の技術の「あいまいさ」を、TDS計の数値という冷徹なデータで突きつけられることに、強い衝撃を受けていた。彼女の「感覚的な優しさ」は、「再現性のない遊び」に過ぎなかったことを痛感させられ、香月の指導は、テラスの「楽しくやれればいい」という、甘い意識を根底から揺さぶるものだった。




