1.旅立ちの青空
8月上旬。アスファルトの照り返しで揺らめく灼熱の東京を抜け出し、バリスタ部を乗せたチャーターバスは、標高千メートルの避暑地、軽井沢を目指して山道を登っていた。バスがトンネルを抜けるたびに、窓の外の景色は、灰色がかった都会の人工物から、濃密なブナやカラマツの緑、そして頭上に広がるどこまでも澄んだ青空に変わっていった。
空気は肌を刺すように冷涼で、窓を開けると、都会の湿り気が一切ない、澄んだ木の葉の匂いと土の香りが流れ込んできた。この非日常的な環境こそが、彼らの技術と精神を研ぎ澄ませる舞台となることを、この時の部員たちはまだ知る由もなかった。
先日、SNS炎上という大きな危機を乗り越えたことで、テラスの部員たちの間には、強い連帯感と、成功への高揚感が生まれていた。特に1年生の蓮、結、蒼太は、この合宿を心から楽しみにしている様子だった。
「空気が全然違う! 深呼吸するだけで、胸が洗われるみたい。すでにこの環境だけで、最高に美味しいコーヒーが淹れられそうだね、蒼太くん!」
広報担当の結は、窓に顔を近づけ、弾んだ声を上げる。彼女は、この美しい場所で最高のインスピレーションを得て、テラスの次なる物語を紡ぎ出すことに意欲を燃やしていた。
「空気の...雑味が、ない。湿度が低いから、豆の香りがよりクリアに感じられる。軽井沢の低湿度は、豆の水分含有率を安定させ、抽出の均一性に直結する。科学的なアドバンテージだ」
蒼太はいつものように言葉少なだが、その瞳は期待に満ちていた。彼は、軽井沢の環境が持つ科学的なメリットを、すぐに抽出技術と結びつけて考えていた。
「たい焼きは作れないけど、その分、コーヒーに集中できるってわけだ。俺は、あの『完璧な職人』の基準を、必ずここで手に入れる」
蓮も、技術向上への意欲を隠さない。彼は以前、香月涼子に職人としてのプライドを否定された悔しさを、この合宿で晴らすつもりでいた。
テラスの部長である楓と美咲、そして接客統括の陸も、部員たちの前向きな熱意を温かく見守っていた。軽井沢のセミナーハウスは、星陽高校が契約する研修施設で、周囲は静寂な森に囲まれ、人工的な音がほとんど届かない、隔離された場所だった。
到着後、部員たちは、天井が高く、窓から豊かな緑が見渡せる広々とした研修室に、エスプレッソマシンとドリップ器具を設置した。しかし、その楽園のようなムードは、顧問の香月 涼子が、たった一言で打ち砕いた。彼女は、到着直後から、いつもとは比べ物にならないほどの、冷徹な緊張感を放っていた。
「いいか、浮かれている暇はない。ここは君たちの卒業旅行でも、避暑のための遊び場でもない。ましてや、楽しい部活動の延長でもない。最高のコーヒーを追求するための、修業の場だ。遊び半分で来ていい場所ではない」
香月は、冷たく宣言した。
「私はこの4日間、君たちに『プロの基準』を、技術と精神の両面から徹底的に叩き込む。それは、君たちがこれまでテラスで達成した『成功』を一度リセットし、本物の品質を目指すということだ。その覚悟がない者、私の指導に反発する者は、今すぐ帰りのバスに乗って東京に戻りなさい。私は、中途半端な気持ちでコーヒーを扱う者を、指導するつもりはない」
香月はサングラスを外し、その冷徹な視線で部員一人ひとりを射抜いた。その目には、いつものテラスでの冷静ながら穏やかな表情は一切なく、指導者としての厳格さと、過去の成功に裏打ちされた絶対的なプロ意識だけが宿っていた。彼女のオーラに圧倒され、部員たちは身動きが取れなくなった。軽井沢の涼しい空気は、一瞬にして、ピンと張り詰めた氷のように凍りついた。




