5.一杯のコーヒー
静かに抽出された一杯のコーヒーを、蒼太は結の前に差し出した。その温かさと立ち上る酸味と甘さを伴う香りが、結の冷え切った心を微かに解かし始めた。結は、恐る恐る顔を上げた。
蒼太は、顔を伏せる結を見下ろし、深く息を吸い込んだ。彼は言葉に詰まりながらも、震える声を絞り出した。それは、彼がこれまで誰かに対して話した中で、最も長く、最も感情が込められた言葉だった。彼にとって、これは単なるコーヒーを渡す行為ではなく、自分の心を晒す行為だった。
「結さん……これ」
蒼太は、コップに手を添えながら続けた。
「僕たちは、この一杯のコーヒーの向こうに、農家さんの努力や、味の誠実さがあると信じている。蓮くんの餡子も、美咲先輩のレシピも、すべてそう。僕は、コーヒーを淹れるとき、その豆が『最高級の価格』であるかどうかは、二の次だと思っていて、ただ、豆が持つ誠実な品質だけを考えて淹れている。その品質こそが、僕たちの唯一の武器だから」
蒼太は、結の目の高さまでしゃがみ込んだ。彼にとって、他人と目を合わせることは途方もない緊張を伴う行為だったが、今はその恐怖よりも、結を支えたいという感情が勝っていた。
「結さんが発信したものが、嘘だと思われたことが、僕には一番悔しい。それは、僕たちがテラスでずっと守ってきた『誠実さ』が否定されたということだから。僕も、コミュニケーションは苦手で、いつも言葉が足りない。でも、逃げないで。僕たちバリスタ部は、言葉じゃなくても、品質で証明できる。嘘はついていないって。だから、結さんの言葉で、それを証明して」
蒼太の言葉は、彼のコミュ障ゆえのぎこちなさが残っていたが、その分、純粋で真摯だった。彼は、初めて技術ではなく、自分の心の奥底にある「誠実さ」という感情を共有し、結を支えた。それは、彼にとって、孤独な殻を破り、人間関係への一歩を踏み出す、決定的な瞬間だった。
結は、蒼太の拙いながらも真摯な言葉と、温かいコーヒーの香りに触れ、堰を切ったように泣き出した。それは、自責の念と、自分の孤独な戦いを誰にも理解してもらえないという絶望感からの、解放の涙だった。蒼太が、自分と同じ「誠実さ」を否定されたことに怒り、自分を支えてくれている。その事実が、彼女を立ち直らせた。
彼女は、涙を拭い、顔を上げた。その目には、強い決意が宿っていた。
「わかったわ。蒼太くん……ありがとう。私が、広報担当として、この責任を取ります。私が、誠実に対応します。桐生先輩の論理と、蒼太くんの誠実さ、両方で戦う」
彼女は、広報とは、逃げることではなく、責任を果たすことだと悟った。そして、桐生の求める「論理」と、蒼太が教えてくれた「誠実さ」の両方を持って、この危機に立ち向かうことを決意した。




