4.温度差の理解
楓と美咲が結を連れ戻すため動く中、テラスに残された蒼太は、作業台の隅で立ち尽くしていた。彼は、コミュ障として常に自分の内側に閉じこもり、人間関係を築く上で、自分の技術である「コーヒーを淹れること」という非言語の技術に依存してきた。彼にとって、言葉は常に不安と緊張の源だった。
蓮は怒り、陸は戸惑い、真琴は分析。それぞれの感情は理解できた。だが、結が「泣いている」「苦しんでいる」状況に対し、どう接すればいいかわからない。「大丈夫だよ」「気にしないで」といった、感情を伴う言葉が、喉の奥でつかえて出てこない。それは、彼にとって、相手を傷つけるかもしれないという恐怖からくる、言葉への不信感だった。
(僕は、技術や知識でなら人を助けられる。コーヒーの味が悪ければ直せる。道具が壊れれば修理できる。でも、人の心で落ち込んだ誰かをどう支えるのか……)
蒼太は、改めて、技術や論理が役に立たない、人間の根源的な葛藤に直面した。彼は戸惑い、自分の無力感を覚えた。それは、彼がこのテラスに来てからようやく築き上げてきた「バリスタ部の部員」というアイデンティティが、もともとのコミュ障により崩れ去るような感覚だった。
数時間後、楓と美咲は、憔悴しきった結を連れてテラスに戻ってきた。結は顔を伏せ、微かに震えながら謝罪の言葉を繰り返すばかりだった。彼女の瞳は虚ろで、テラス全体が重い沈黙に支配されていた。
美咲は、その重苦しい空気の中で、桐生から預かったSNSの分析結果を広げた。彼女は、楓と結を前に、感情を排した冷静な口調で炎上の本質を語り始めた。
「結が落ち込むのは当然よ。でも、私たちはまず、論理的に考える必要がある。このミスの根源は、『最高級』という言葉が持つ、私たちと世間との価値観のズレ。私たちは『地元の農家さんの情熱』に価値を置いた。でも世間は、『市場価格』にしか価値を置かない。私たちの『地元愛』が、外部には『金の亡者』に見えてしまった。私たちは自分たちの成功に浮かれて、対外的な言葉の重みを軽視していたのよ」
美咲は、この炎上は「虚偽広告」ではなく、テラスの「誠実さ」という商品価値をどう伝えるかという問題だと定義した。謝罪だけでなく、地元の農家さんとの連携の背景と、私たちが追い求める品質を誠実に伝える必要があると結論づけた。
皆が言葉で慰めようとする中、蒼太は静かに立ち上がり、自分の役割を果たすことを決めた。彼は、言葉が届かないなら、行動で誠意を示すことを選んだ。それが、彼にできる唯一の「共感」の形だった。
彼は、豆棚からコスタリカ産のコーヒー豆を取り出した。この豆は、彼の技術の結晶であり、コミュ障だった蒼太が、初めて自分のコーヒーの味に絶対的な自信を持つことができた、彼の内的な成長の象徴だった。
彼は、結のためだけに、心を込めて、一杯のコーヒーを丁寧に淹れ始めた。フィルターのセット、豆の計量、お湯の温度、そして抽出スピード。その動作は、感情が込められた、静かで、完璧な儀式のようだった。彼の全神経が、この一杯に注ぎ込まれていた。




