4. 新しい一歩、バリスタ部への入部
香月の言葉は、まるで鋭利なナイフのように蒼太の心を切り裂いた。
「あなたは、言葉で自分の感覚を伝えることにさえ苦労している。接客という言葉の武器を持たないあなたに、この部活に居場所はない」
それは、蒼太自身が一番よく知っている、揺るぎない事実だった。自分の内気な性格が、クラスメイトとのたった数秒の会話を破壊したように、このテラスという華やかな舞台でも、必ず誰かを失望させてしまうだろう。
せっかく見つけた、高校三年間を安心して過ごせるかもしれない、温かい場所。逃げ場所でも、隠れ場所でも、居場所でもいい。ここでなら、周りの目を気にせず、ただ自分の五感を正直に働かせていられると思ったのに。
(そうだ、僕は、華やかなバリスタなんてなれるわけがない。一瞬でもそう思ってしまったことが恥ずかしい)
蒼太の頬が熱くなる。彼は急いでベンチから立ち上がった。この場に一秒でも長くいることは、迷惑をかけることと同じだ。今すぐ、このテラスから逃げ出し、誰にも見つからないように家に帰らなければ。
「あ、あの…失礼しました。今日、は、その……ありがとうございました」
蒼太は言葉を詰まらせながら、逃げるように背を向けた。そのとき、楓の声が響いた。静かだが、確かな意志を持った声だ。
「先生、ちょっと待ってください」
楓は立ち去ろうとする蒼太をちらりと見ることなく、冷静に顧問の香月に向き合った。
「香月先生のご指摘は、プロのバリスタとしては全て正しいです。衛生管理、経理、技術、全てが欠けてはいけない。ですが、この子はまだ入学式を終えたばかりの、たまたまテラスに立ち寄っただけの高校一年生です。その彼に、初日から完璧な接客や言葉の武器を求めるのは、教える側の怠慢ではないでしょうか」
香月は眉一つ動かさなかったが、楓の言葉の重さに、わずかに目線を下げた。
「日向くんの持っている『感覚』は、何年かけても習得できるものではありません。もし彼がそれを技術として昇華できれば、彼はこのテラスにとって、誰よりも強力な『言葉の壁を越える武器』になる。その才能を、彼の『弱点』で摘み取るのは、間違っています」
楓は香月との対話を終えると、再び蒼太に向き直った。彼女の瞳は真剣で、そこに安易な慰めの色はなかった。
「日向くん、私からもあなたに正直に話すわね。私はいろいろな人を見てきたからわかる。あなたは、はっきり言ってコミュ障よ」
蒼太は一瞬、息を止めた。面と向かって「コミュ障」と言われたのは初めてだった。しかし、彼の心に反発は湧かなかった。むしろ、清々しいほどの真実を突きつけられたことに、異論はなかった。楓は、蒼太が否定しないのを見て、続ける。
「でも、それは治せない欠陥じゃない。そして、あなたの最大の強みである『感覚』を、殺してはいけない」
楓は、静かに蒼太の肩に手を置いた。
「あなたは、今日このテラスに来てくれた。それは、コミュニケーションが苦手なあなたにとって、人生を賭けた大きな一歩よ。でもね、日向くん。あなたはここで引き返して、また壁の影に戻ってしまったら、この先の高校三年間、たぶん、友達もろくにできず、何の思い出も得られず、何もなく終わることになる」
その言葉は、蒼太が心の中で最も恐れていた、未来の姿だった。
「それは、すごく勿体無い。だって、あなたはこんなにも美しいものを見分けられる力を持っているんだから」
楓はテラスを見渡した。中庭の光、穏やかな部員たち、そしてエスプレッソマシンの銀の輝き。
「私はね、あなたに完璧なバリスタになってほしいんじゃない。完璧に正直な自分になって、このテラスで、あなたのコーヒーを待っている誰かのために、その才能を使ってほしいの」
楓の言葉は、蒼太の目指すべき未来を示していた。それは、淀みなく会話を交わすクラスメイトたちのような、社交的な「明るさ」ではない。自分の才能を武器に、言葉がなくても誰かの心を動かせる、楓のような「包容力と強さ」を持った姿だった。
蒼太は、深呼吸をした。胸の奥で、何かが張り裂けるような痛みが走った後、温かい感動が湧き上がってきた。
(ここで、逃げてはいけない。僕のこの「感覚」を、閉じ込めてはいけない)
彼は、俯いていた顔を上げ、言葉に詰まりながらも、はっきりとした声で、震える自分を奮い立たせた。
「あの…僕は、接客は、練習します。コミュニケーションを取ることも頑張ります。だから、僕のこの…コーヒーの真実を見分ける力を、このテラスで使わせてください。入部、したいです!」
その力強い決意に、楓は心からの笑顔を見せた。
「ありがとう、日向くん。ようこそ、バリスタ部へ」
横で全てを聞いていた香月は、腕を組みながら冷めた口調で口を開いた。
「…いいでしょう。橘部長がそこまで言うなら、私情を挟むつもりはないわ。ただし、正式な入部は認めない。仮入部期間は一ヶ月。その間に、コーヒーの淹れ方とたい焼きの作り方、それに接客や裏方の作業など、一通りのことができるようになること。成果を出せなければ、容赦なく切るわよ」
香月はそう言い残し、さっさと立ち去った。その言葉は厳しかったが、蒼太の心には、それが「チャンス」であると響いた。
楓は、蒼太を他の上級生たちに紹介した。屈強な体格の先輩は、大きな声で笑いながら蒼太の背中を叩いた。
「ようこそ、新入り!俺は、主に接客やってるぜ。困ったら遠慮なく声かけろ!」
理路整然とした様子の女性の先輩は、少し驚いたように蒼太を見つめ、冷静な声で言った。
「あなたの特殊な感覚、データとして計測させてもらうわ。楽しみね」
彼らの歓迎の様子は、騒がしかったが、蒼太にとっては初めて経験する温かい仲間の空気だった。
テラスの客席にいた、たい焼きを観察していた口数の少ない同級生の男子生徒と、メニューボードを撮影していた明るい同級生の女子生徒も、興味深そうに蒼太の方を見ていた。彼らもまた、この場所で、何かを求めているのかもしれない。
蒼太は、両手のひらを見つめた。ついさっきまで震えていた手のひら。今は、楓から受け取った温かいコーヒーの余韻と、新しい一歩を踏み出したことによる、静かな熱が宿っている。
彼は、初めて得た居場所と、そこで活かせる才能への期待を胸に、明日からの高校生活が、今日までとは違う、全く新しい物語になることを確信した。




