4.芸術家の葛藤
戸田の熱意に触発され、自身の芸術に疑問を持った美術部員たちにも、本格的なスランプが伝染した。
「神崎部長、私、この大作が描けないんです。永遠に残るって言われても、その『永遠』が誰を救うのか、何の意味があるのか、わからなくなっちゃって……」
萩原は、自分のキャンバスの鮮やかな色彩が、まるで生気を失ってモノトーンに近づいているように感じていた。遠野も、緻密なデッサンが、なぜか「冷たい写真」にしかならないことに苦悩し、鉛筆を持つ手が重くなっていた。
神崎が求める「不朽の芸術」は、あまりにも高尚すぎた。その理想が高すぎて、部員たちの心を縛りつけ、創作の自由と喜びを奪っていた。
(戸田くんの言う「一瞬の芸術」は、人々の心を動かしている。では、永遠に残る私たちの芸術は、一体何を動かしているというのだろう? 私自身も、理想と現実のギャップに、絵筆を握る手が震えている)
神崎は、部員たちの士気の低下と、自分の芸術への厳しさがもたらした結果に、大きな重圧を感じていた。彼女の作品もまた、完璧を求めるあまり、手が動かせない状態に陥っていた。
一方、戸田は、キャンバスでの挫折を経て、自分の戦場はやはりテラスのカウンターだと再確認した。絵画で「永遠に残る」ことを証明しようとした試みは、彼の芸術の「流動的な本質」を殺してしまうだけだった。
彼はラテアートを解禁し、接客と抽出に専念する。その中で、楓が、連日の部活と受験勉強で疲れた生徒に、そっとお気に入りのキャラメルフレーバーを添えた一杯を出す様子を、戸田は何度も目に焼き付けた。その生徒の顔に広がった、心からの安堵の笑顔。楓の瞳には、一切の迷いもなく、「この一杯で癒したい」という温かい感情が溢れていた。
(そうだ。楓部長の言う通りだ。技術は、客の感情という変数を読むための手段だ。俺のラテアートは、客の心を最高の状態に整える、最高のホスピタリティ・アートなんだ。芸術性ではない。優しさこそが、テラスの芸術の本質だ)
戸田は、スランプの原因が、「芸術性」を追求するあまり、「客への優しさ」を忘れていたことにあると悟った。
その日の夕刻。神崎が一人でテラスに来店した。彼女の顔には、張り詰めた緊張と、創作の苦悩による疲労が色濃く滲み、その表情は珍しく弱々しかった。
戸田は、彼女のために、あえてラテアートではない、ただの温かいドリップコーヒーを淹れた。彼の淹れるドリップコーヒーは、豆のポテンシャルを最大限に引き出し、雑味のない、クリアで優しい味わいを持っていた。カップは、彼の優しさで温められ、淹れたての温かい香りが神崎を包み込む。
神崎は一口飲むと、しばらくカップを両手で包み込み、そして深い溜息とともに、久しぶりに安堵の息を漏らした。彼女の肩の力が、目に見えて緩んだ。
「ありがとう、戸田くん。……とても温かいわ。この温かさが、今の私には一番必要だったのかもしれない」
戸田は、神崎の瞳を真っ直ぐに見つめ、静かに言った。
「神崎部長。あなたが今飲んでいるこのコーヒーは、三十分後には冷め、すべて消えます。紙コップも、ゴミ箱行きです。しかし、この一杯を飲んだあなたの疲労と、張り詰めた心は、今、確実に癒された。その事実は、永遠に残り、あなたの創作を支えるでしょう」
戸田は、心に抱いていた真実を言葉にした。
「芸術の価値は、残るか消えるかという形式ではなく、誰かの心を動かせたかどうか、じゃないでしょうか。不朽を追い求めるあまり、今、目の前にいる人の心を見失っては、本末転倒です。テラスの芸術は、『今、この瞬間を温める』ことって、恥ずかしながら最近、皆さんと共に絵を書いていたらわかるようになりました」
神崎は、返す言葉を持たなかった。戸田の言葉は、技術的な理論ではなく、心を込めた一杯から発せられた、温かい真実だったからだ。彼女の厳しすぎる美意識は、この一杯の「温かい優しさ」によって、初めて融解の兆しを見せた。




