6.「GLP 2.0 - 感情補正プロトコル」の策定
テラスの扉が開き、顧問の香月が入ってきた。彼女は、テラスの外から、雫と蒼太の対話と、雫の新しい抽出の一部始終を見ていた。
香月は、クールな表情のまま、部員たちを前に語り始めた。
「雫。あなたの理論は完璧だった。だが、完璧な理論が、現実世界で通用しないのは、『人間』という最も厄介で、最も尊い変数を無視したからよ」
香月は、タンブラーの蓋を静かに閉じた。
「数字は、世界を記述する言語だわ。だが、その言語を、『優しさ』という詩に変えるのは、いつだって人間よ。そして、その人間の揺らぎを、もう一人の人間(蒼太)が嗅ぎ分ける。あなたたちは、最高のバディね」
香月は、自分が数学教師になった真意を、改めて部員たちに示した。彼女が求めていたのは、数字に支配されることではなく、数字を道具として、人間の感覚や感情を最大限に高めることだったのだ。
雫は、理系として香月の言葉に深く納得し、次の目標を定めた。それは、「蒼太の嗅覚が感じる『感情』を、いかに数値やプロセスに落とし込み、マニュアル化するか」という、理系バリスタでしか成し得ない新たな挑戦だった。
葵も、今回の実験でテラスのコーヒーに宿る温かさの正体を知り、また客としてテラスの常連であり続けることを約束した。
「よし、じゃあ私たちも、テラスのコーヒーを新しいステージに進めるわよ」
楓の号令の下、雫は蒼太と協力し、「GLP 2.0(感情補正プロトコル)」の策定に取り掛かった。
それは、嗅覚と科学の融合だ。 まず、抽出前に蒼太が豆や環境の「匂い」を嗅ぐ。
「今日の豆は、少し『酸味への警戒心』を感じます。昨日の雨のせいかもしれません」
「テラス全体から、『疲労感の匂い』が漂っています。ここは甘い香りのたい焼きを強調し、コーヒーは苦味を抑え、ホッとする味わいに補正すべきです」
蒼太の感覚的な補正値を、雫が科学的なデータと照合する。
「酸味への警戒心……それは、昨日の高湿度が原因で、豆の水分活性が上昇していることと合致する。よし、グラインダーを0.15段階、意図的に粗く挽くことで、抽出速度を速め、酸味成分の溶出を抑制する。これが、感覚を裏付ける科学的根拠よ」
二人の協力により、テラスのコーヒーは、理論的な安定性と、飲む人への優しさを兼ね備えた、新しいレベルに達しようとしていた。
木漏れ日テラスのバリスタ部は、理論と感覚という、正反対の才能を持つ二人によって、新しい未来へと舵を切る。彼らの挑戦は、ただ美味しいコーヒーを淹れるだけでなく、「人間の心を科学し、優しさを提供する」という、テラスの新しい価値を創造し続けるのだった。




