5.感覚と科学の協奏曲
「じゃあどうすればいいのよ!?」
雫は、自分の完璧な理論が、蒼太の「匂い」という曖昧な感覚で否定されたことに、悔しさと混乱で涙ぐむ。
「楓部長や陸は、それを無意識にやっている。でも、私には、その『人間の揺らぎ』を数値化できない!理論が、私の信じてきた科学が、こんな曖昧なものに負けているっていうのね……!」
彼女が理系としての限界を前に声を荒らげた時、協力者である葵が、優しく語りかけた。
「雫。科学は、人間を否定するためのものじゃないよ。人間の感覚や優しさを、最も美しく実現するための道具でしょ? 楓部長のコーヒーの『優しさ』を、科学で再現してみせて」
蒼太は、その言葉を受けて、雫に最後の助言をした。
「理論値は大切です。それは、完璧な土台です。でも、コーヒーは飲む人のためのもの。例えば、今、テラスで勉強している勉強中の生徒たちに、『頑張ってほしい』と願う気持ちを込めて、抽出してみてください」
「私の感情を、込める……?」
「はい。先輩の感情の揺らぎを、豆に伝えてください。それは、あなたの優しさです」
雫は、半信半疑ながらも、彼らの言葉に従い、再び抽出を試みた。 彼女は、理論値からわずかに逸脱することを恐れず、抽出中に「この一杯が、みんなの疲れを癒し、集中力を高めてくれますように」と強く願いながら、湯を注ぐ。
彼女の動作は、以前の硬直したものとは違い、「人間的な揺らぎ」を含んだ、滑らかで自然なものに変わっていた。
淹れ直されたコーヒーが、部員たちの前に並べられた。 部員たちは、一口飲んで目を見張る。
「……まろやかで、奥深い!」と楓が感嘆の声を上げた。
「技術は完璧なまま、温かさが足されたわ。これよ、私たちが目指していた味は!」
「芸術性が生まれたな。魂が宿った味だ」と戸田。
蒼太は、一口飲んで、静かに微笑んだ。
「これには、雫先輩の『優しさ』がきちんと入っています。さっきのは、ただの『計算』でした。数学は美しくても、コーヒーは優しくないとダメです」
雫は、自分の淹れたコーヒーを飲み、涙を流した。その味は、理論の完璧さだけでは決して到達し得ない、温かい深みを持っていた。
「コーヒーは……理系的な要素の塊だけど、同時に、環境や人間の感情の微細な揺らぎを取り込んでしまう『生きた科学』なんだ……」
彼女は、自分が排除しようとした「人間の感情」こそが、コーヒーを真の美味しさへと昇華させる、最も重要な変数だったと悟った。 理論を否定するのではなく、「理論だけでは捉えきれない、人間味あふれる領域を、いかに科学的に受け入れ、補正するか」。それが、理系バリスタとして進むべき新しい道だった。
「蒼太くん……ありがとう」
雫は、理系としてのプライドを捨て、心から感謝を述べた。彼女は、「感覚の天才」である蒼太が、彼女にとって最高のパートナーであることを確信した。




