4.人間的な揺らぎ
雫が実験室に閉じこもって三日目。テラスの空気は、理論と感情の対立によって重くなっていた。
楓は、この状況を打開できるのは、テラスの中で唯一、理屈の対極にある存在だと確信できる人物、蒼太だ。
「蒼太くん。お願いがあるの」
楓は、カウンターの片隅でメニューの整理をしていた蒼太に、真剣な顔で話しかけた。
「雫を助けてあげてほしいの。彼女は、私たちの『手の揺らぎ』をノイズだと見ている。でも、それはノイズじゃない。私たち熟練者が、客や環境に合わせて意図的に行っている微調整よ。それを、蒼太くんの『匂い』の感覚と言葉で、雫に伝えてあげてほしい」
「僕の……匂いで、ですか?」
蒼太は戸惑った。繊細な雫を傷つけることを恐れたからだ。 だが、実験室から微かに漂ってくる、「科学への盲信と、悲しいほどの焦燥の匂い」を嗅ぎ分け、彼は意を決した。
楓は、熟練のバリスタの技について蒼太に説明した。
「たとえば、同じオーダーでも、冬の朝と夏の夕方では、抽出の条件をわずかに変えているわ。冬の朝は乾燥しているから、豆の成分が抽出されにくい。だから、私たちは無意識に、挽き目をわずかに細かくして、抽出時間を長めにしている。逆に、夏の夕方は湿度が高く、成分が溶け出しやすいから、挽き目を粗くして抽出を抑えるの」
「あとは、客層ね。激しい練習後の運動部の男子生徒には、疲労回復を促すため、少し熱めの湯で、カフェインと苦味を強調する。繊細な文化部の女子生徒には、温度を下げ、酸味と香りを活かし、優しく集中力を高めるのよ。これは、データじゃなくて、客の顔を見て判断する感覚なの」
蒼太は、深く頷いた。彼の嗅覚は、楓の言う「微調整」や「客への配慮」を、「優しさ」として感じ取っていた。 彼は意を決して、雫の実験室の扉を開けた。
「雫先輩……あの、淹れているところを見てもいいですか?」
雫は顔を上げず、解析ソフトの画面を睨んでいた。
「勝手にしなさい。ただし、静かに。ノイズは不要よ」
蒼太は、雫の淹れたてのコーヒーを嗅いだ。 彼の鼻孔を刺激したのは、クリアではあるが、どこか冷たい匂いだった。そして、その奥には、「計算の匂い」と、「理論への過度な緊張の匂い」が混ざっていることを確認した。
蒼太は、雫の抽出動作を見つめていた。その動きは、完璧な数値を目指すあまり、まるでロボットのように硬直していた。
「雫先輩のコーヒーからは、淹れる前の豆が持っていた『生きた成分の匂い』が消えています」
蒼太は静かに、しかし明確な言葉で語り始めた。
雫は、初めて手を止め、蒼太に視線を向けた。
「どういう意味よ?」
「先輩が『完璧に制御しよう』と力を入れすぎたせいで、湯を注ぐ指先の力が硬直し、豆の持つわずかな油分や香りを閉じ込めてしまっています。それは、コーヒーを淹れる行為から『優しさ』を消してしまった。結果、理論は完璧でも、飲む人には『計算』だけが届いてしまう」
雫は反論しようとしたが、蒼太の言葉が胸に突き刺さった。
蒼太は続けた。
「そして、今は夕方前ですが、テラスには先ほど、長距離走を終えたばかりの陸上部員が来ています。彼らの体温と疲労を癒すには、理論値通りの温度ではなく、わずかに高めの温度で、『お疲れ様』という気持ちを込めた熱量が必要でした。その『優しさの補正』が、このコーヒーにはありません」
「な……!?」
雫は動揺し、蒼太の指摘を信じられないものの、彼が指摘する「客層や時間帯による微調整」が、楓たちの過去のデータシートに、「本日の気温と湿度に対する主観的調整値」として記録されていることを発見する。楓たちは、数値では表せない変数を、自分の身体の感覚で補正していたのだ。
彼女の理論は、「人間的な揺らぎ」という、最大の変数を見落としていた。




