3.理論の壁と味の不協和音
一週間後、雫はついに「雫式・理論的完璧ブレンド」を完成させた。 彼女のロジックでは、過去のテラスの成功データと失敗データを数値解析し、そこから雑味やムラを徹底的に排除した、理論上の究極の一杯であるはずだった。
「部員のみんな、試飲をお願いします。これは、感情的なノイズを排除し、豆本来のポテンシャルを最大限に引き出した、『ゴールデン・リキッド・プロトコル』に基づいて抽出されたコーヒーよ」
雫は、普段見せないほどの自信を滲ませ、完成した抽出液を部員たちに提供した。
楓を始め、部員たちはその冷徹な科学の結晶を一口飲んだ。
最初に口を開いたのは、部長の橘楓だった。
「……ええ。雑味は全くないわ。えぐみもない。抽出の技術、そして数値の正確さ、科学的な満点は間違いない」
そこまで言って、楓は言葉を詰まらせた。
「でも、雫。何かが足りない。クリアすぎるのよ。まるで、冷凍保存されていた宝石みたい。温かさというか、飲んだ後の心の響きが、いつもの私たちのコーヒーに比べて決定的に欠けている気がする」
「技術的には満点だが、芸術性が皆無だな」
戸田が続いた。彼はラテアート担当であり、美術的な感性が鋭い。
「数学的な正解かもしれないが、生きている素材の持つ妖艶さがない。冷たい印象だ」
蓮も、正直な感想を述べた。
「俺のたい焼きと合わせると、コーヒーの方が冷たい気がします。なんというか、完璧すぎて、餡の優しさや甘さと、心の温度が合わないみたいな」
そして、協力者である葵も、率直な意見を言わざるを得なかった。
「ごめんね、雫。データ通りなのは分かってるけど、飲んだ後にホッとする安心感がない。コンビニの自動販売機で淹れたような、魂のない味に近い印象だよ」
雫は、予想だにしなかった結果に、顔から血の気が引いた。彼女の完璧な理論が、曖昧な「味」という感覚で否定されたのだ。
「そんなはずはないわ! 理論上、この抽出液が最高峰の味を出しているはずなのよ! あなたたちの味覚がおかしいんじゃないの!?」
雫は、理系としての理想が崩れ去る焦燥感から、思わず声を荒らげた。
部員たちの曖昧な評価に納得できない雫は、放課後の営業中にも、常連の生徒たちにもその「理論的完璧ブレンド」を提供した。結果は、部員たちの評価よりもさらに厳しいものだった。
激しい部活動を終えた運動部の男子生徒は、「いつもの先輩たちが淹れてくれる方が、疲労回復に効く感じがする」と言い、 放課後に台本を読みに来る演劇部の女子生徒は、「深みがなくて、集中力が続きません。まるで、コピーされたみたい」とコメントした。
完璧なはずの理論が、現実の「味覚」という感覚によって、無残にも否定された。
雫の心には、「理屈で説明できない要素は、欠陥だ」という信念と、「科学が、感覚に負けるわけがない」という頑なな抵抗感が渦巻いた。 彼女は、テラスの奥の実験室に閉じこもり、孤独に再実験を繰り返す。彼女の理系としてのプライドは、今、大きく揺らぎ始めていた。




