2.理論派バリスタの暴走
定期テストが終わり、星陽高校は日常を取り戻した。テラスも営業を再開し、部員たちは早速、久しぶりの活動に精を出していた。 陸が野球部の助っ人で勝利に貢献したこともあり、テラスの活気は以前にも増して熱を帯びている。
だが、テラスの奥の控室には、異様な雰囲気が漂っていた。 雫は、香月の言葉に触発されて以来、完全に「研究者モード」に突入していた。彼女の目標は、楓や陸の「勘」や「手の揺らぎ」を排除し、誰が、いつ、どんな豆を淹れても、完璧な味を再現できる「ゴールデン・リキッド・プロトコル(GLP)」を確立することだ。
「このテラスの人間の揺らぎは、再現性を阻害する最大の欠陥だわ」
雫は、実験スペースと化した部室の奥で、デジタル精密温度計やタイマー付き電子天秤、さらには粒度計を前に、熱っぽく呟いた。
「欠陥って、ひどい言い方ね、雫」
そう声をかけたのは、彼女の隣に座る松永葵だった。葵は雫と同じクラスの友人で、科学部に所属している。機械の操作やデータ解析のエキスパートであり、雫の依頼で協力者としてテラスに来ていた。
「葵、これは事実よ。楓部長の抽出は美味しい。でも、完璧に同じ条件で二杯淹れても、わずかに味が違う。それは、部長の手や感情の揺らぎが原因よ。科学者は、ノイズを排除し、真理を追求すべきだわ」
「それはわかるけどさ……」
葵は、目の前の複雑な実験器具と、テラスのカウンターの温かい雰囲気を交互に見比べる。葵自身も、楓や陸が淹れるコーヒーの大ファンだ。
「楓部長や陸先輩のコーヒーには、数値には表せない『飲んだ後の温かさ』があるんだよ。その温かさを排除したら、テラスの魅力がなくなるんじゃないかな?」
雫は、葵の懸念を一蹴した。
「私もそれは思うことがあるけど、やっぱり曖昧な感覚は不要よ。最高の美味しさは、完璧な数値の組み合わせでしか生まれない。感情はノイズ。テラスの魅力は、誰が淹れても常に最高の味を提供できることにあるべきだわ」
葵はため息をついた。雫は、一度こうと決めたらテコでも動かない。 二人は協力して、テラスの過去の抽出データをすべて集め、豆の焙煎度、水温の変化、グラインダーの粒度設定、蒸らしの秒数と湯の滴下の比率などを、細かく記録・解析する作業に没頭した。
雫は、実験スペースに持ち込んだ流量制御ポンプや特殊な滴下装置を操作し、感情を一切排除した「機械の抽出」を繰り返す。彼女は、計算し尽くされた理論値通りに抽出を試み、抽出中の自分の手の揺らぎさえも、再現性を阻害する「ノイズ」と見なし、無駄な動きを極力排除した。
「葵、流量を0.01ml/s単位で計測して。湯の温度が92.5度から92.3度に低下した瞬間を記録。その時の抽出液のPH値を即座に測定よ」
「はいはい。まるでどこかの研究室みたいね、ここ」
葵は、雫の熱意に協力しつつも、カウンターから聞こえる楓の穏やかな声や、蓮がたい焼きを焼く香ばしい匂いを感じていた。
『理論的な正しさと、人が求める美味しさは、本当にイコールなのかな?』
葵は、雫がストイックに理論追求に没頭する姿を記録しながら、いつものテラスの温かい雰囲気とのギャップに、内心で強い違和感を覚えていた。




