3. 「最高の居場所」と「言葉にならない才能」
蒼太は彼女から受け取った温かいカップを、両手で包むように握りしめた。その手のひらに伝わる温度が、外側の冷たい喧騒から自分を切り離してくれる結界のようだった。
一口、口に含む。苦味と酸味は抑えられ、焦げた匂いから想像したよりも遥かに円やかで、深いコクがあった。それは、彼の舌を通り過ぎた後、鼻腔に抜ける瞬間に、かすかな「チョコレートの甘さ」と「焼きたてのパンの香ばしさ」を残していった。
(なんだ、これ……)
蒼太の頭の中で、味覚と嗅覚がフル回転し始める。それは、論理ではなく、感覚の世界だった。このコーヒーは、まるで誰かが「大丈夫だよ」と、優しく頭を撫でてくれているような味だ。緊張で乾ききっていた喉と心が、この液体によってゆっくりと潤されていく。自分の存在が、このテラスの中で初めて肯定されたような気がした。
蒼太は深く息を吐き、静かにカップを置いた。
「美味しいです」
彼が絞り出せたのは、それだけの言葉だった。これ以上の賛辞を伝えたいのに、言葉のパレットには、ありきたりな「美味しい」という色しか見つからない。しかし、その一言に込められた蒼太の感動は、彼の瞳の奥の揺らぎと、カップを離せない指先の微かな震えに現れていた。
先輩はカウンター越しに、その様子をじっと観察していた。
「ありがとう。あなたにそう言ってもらえて、嬉しいわ」
彼女はそう言うと、持っていた布巾をそっと置き、蒼太が座っているベンチに近づいてきた。
「よかったら、少し話さない?私は、このバリスタ部の部長をしている、橘 楓よ。三年生」
「あ…、ひ、日向、蒼太です。一、一年です……」
蒼太は、突然部長という大先輩が隣に座ったことに驚き、反射的に立ち上がりそうになったが、楓に「座ってて大丈夫よ」と優しく止められ、再び体が硬直した。
楓は、穏やかな笑顔のまま、核心を突いてきた。
「日向くん、あなたは、このカフェに何か特別な興味を持ってくれたみたいね。今日、他の部活も見学に行った?」
「い、いえ……」
「そう。じゃあ、聞いてもいいかな。うちの部活の、どこに惹かれた?」
蒼太は言葉が出ない。カフェの雰囲気、上級生の穏やかさ、そしてこのコーヒーの味。それを「全部です」と一言で片付けたくない。
言葉を探し、俯いてしまう蒼太を、楓は焦らせなかった。彼女は、ただ静かに中庭の人工芝を見つめている。
「実はね、日向くん」と、楓は静かに切り出した。
「変なことを聞くようだけど、あなた、さっき私が、あの奥で本を読んでいた先生に出したコーヒーと、あなたのコーヒーの違いに、気づいたでしょう?」
その言葉に、蒼太の心臓は激しく跳ね上がった。
(どうして、わかったんだ……?)
蒼太は、必死に否定の言葉を探したが、声は出なかった。代わりに、彼はただ大きく頷いた。
「やっぱりね。私の直感がそう言っている。あの先生は、うちの顧問で、香月 涼子先生と言うの。普段は数学の先生だけど、実は元一流のバリスタでね。先生は、今日の天気や湿度、そして自分の気分に合わせて、豆のブレンドの指定を細かく変えるの」
楓はそう説明すると、優しい目で蒼太を見つめ直した。
「あなたは、その微かな違いを、どう感じた?」
言葉ではなく、感覚。それを問われた瞬間、蒼太の頭の中が解放された。彼にとって、味覚や嗅覚は言葉よりも明確な情報だった。
「あの…香月先生の、は……」
蒼太は、自分の感覚を正確に伝えるための言葉を探した。それは、山崎との会話で必要とされた「気の利いた挨拶」ではない。純粋に、自分が感じた真実だった。
「先生のコーヒーは、"夕立が去った後の、少し湿った土の匂い"がしました。そして、強い太陽の光が、その土を照らしているような…、硬い匂いです」
楓は目を見開いた。彼女が香月に出したのは、意図的に酸味を強調し、僅かにハイローストした、シャープでキレのあるブレンドだった。湿度が高い日には、その酸味が逆にクリアな印象を与えることを楓は知っていた。蒼太の表現は、その「硬質なキレ」を完璧に言い表していた。
そして、自分の飲んだコーヒーについて。
「僕のは、もっと…柔らかくて、影がある匂いです。誰もいない早朝の森に、朝日がそっと差し込んでいるような、静かで、優しい味がしました」
楓は感動を隠せなかった。蒼太のコーヒーは、楓が彼の緊張を和らげるために、カフェインを抑え、エチオピア産のイルガチェフをベースに深煎りを極限までブレンドした、包容力のある一杯だった。蒼太の表現は、その「温かい優しさ」を完全に捉えていた。
「すごい…日向くん。あなたは、このテラスで誰よりも、コーヒーの真実を嗅ぎ分けている」
楓のその言葉が、蒼太の人生で初めて、彼の「内気さ」や「コミュ障」という欠点ではなく、彼の持つ特殊な感覚を才能として認めた瞬間だった。彼の心臓は、恐怖ではなく、初めて「肯定」の熱で脈打った。
そのとき、テラスの奥から、クールな女性の声が響いた。先ほどコーヒーを飲んでいた、顧問の香月だった。
「橘部長、その評価は甘すぎよ」
香月は、生徒たちに厳格な態度を崩さない、まさに数学教師といった雰囲気の女性だ。黒縁メガネの奥の瞳が、蒼太を鋭く見据える。
「日向くんと言ったっけ、あなたは言葉の表現力に優れているかもしれない。しかし、ここはサービスを提供するカフェよ。お客の要望を聞き、豆の種類を提案し、提供する過程で会話が生まれる。バリスタとは、言葉の壁を乗り越えるプロフェッショナルであるべきなの」
香月の言葉は、氷のように冷たく、理路整然としていた。
「あなたは、いまのこの一瞬で、バリスタ部に興味を持ったのかもしれない。でも、あなたは言葉で自分の感覚を伝えることにさえ苦労している。接客という言葉の武器を持たないあなたに、この部活に居場所はない。バリスタ部で活動するということは、衛生管理、経理、そして何より接客という、全てを完璧にこなす覚悟が必要よ」
彼女の厳しい指摘は、蒼太が最も恐れていた核心を突いていた。
(そうだ、僕は、言葉が出ないんだ。いくら味がわかっても、それを人に伝えられない。この温かいテラスだって、僕にとっては、ただの逃げ場所でしかないんだ……)
蒼太の体は再び硬直した。せっかく希望を見つけたのに、その扉は、自分の最大の弱点によって閉ざされようとしていた。




