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星陽高校バリスタ部  作者: やた
第5話 理系女子の理想

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1.バリスタと数学

 六月上旬、星陽高校は定期テスト一週間前を迎え、校内の空気は張り詰めていた。運動部も文化部も全て活動停止となり、バリスタ部のカフェ「木漏れ日テラス」も休業の札がかかっている。店内の機材には白いカバーがかけられ、賑やかな喧騒は消え、静寂が支配していた。


 だが、テラスがある中央中庭は、生徒たちの自習スペースとして開放されていた。普段は笑い声とコーヒーの香りが満ちる場所が、辞書を引く音、鉛筆が紙を擦る音、そして時折の微かなため息だけが響く「屋外自習室」へと変貌していた。


 その中庭の大きなテーブルを囲んでいたのは、蒼太、結、蓮の一年生トリオだ。


「えーっと、古文の助動詞の接続……これ、表覚えるの無理じゃない? 脳が拒否してる」


 蒼太が古文の長文から目を離し、頭を抱えた。


「大丈夫だよ、蒼太くん。助動詞は接続で分けるんじゃなくて、意味でグループ分けすると効率いいよ。これはね、うちの先生じゃなくて、塾のカリスマ講師の受け売りなんだけど……」


 結は持前の明るさで、慣れた手つきで古文のテキストを広げ、語呂合わせの暗記法を教え始める。その傍らで蓮は、歴史の年号と事件をブツブツと呟きながら、黙々と暗記を進めていた。


 蒼太にとって、友達と勉強するという行為は初めてだった。以前は、何をやるにも一人で机に向かい、疑問点があっても誰にも聞かず、参考書を辿るしかなかった。それは効率が悪く、何より孤独だった。


 だが、今は違う。分からないところがあれば、すぐに結や蓮が声をかけてくれる。蓮の実技科目や暗記の強さ、結の文系科目の知識。そして、蒼太の数学や理科の基礎理解力。それぞれの得意分野を持ち寄り、一つの目標に向かう「連帯感」は、テスト勉強の「大変さ」を遥かに凌駕する「楽しさ」と「心地よい安心感」を与えていた。


「へー、蓮くん、世界史の用語、そんな覚え方してたんだ。職人気質でゴリゴリ暗記してるのかと思ってた」


「失礼な。たい焼きだって、焼き方一つに理論があるんだ。暗記にも効率ってのがあるだろうが」


 蓮がムッとして言い返すと、結が「はいはい、二人とも集中!」と二人の間に仕切りを入れた。


 その時、中庭のテラスの入口から、部活顧問である数学教師の香月涼子が入ってきた。彼女はいつも通り、どこかクールで隙のない佇まいだ。手にはタンブラーを持ち、生徒たちの様子を見ながら静かに近づいてきた。


「あら、勉強しているのね。熱心なのは良いことだけど、少し息抜きしなさい。脳をフル稼働させすぎると、かえって記憶の定着率が下がるわよ」


 香月は、涼しげな顔でそう声をかけると、近くのベンチに腰を下ろした。


 蒼太にとって、彼女は少し畏れ多い存在だった。入部前の厳しい声掛けは今も忘れられないが、一方で本入部テストの前後の会話で、彼女の熱心な教育方針などを見るうちに、徐々に教育者としての優しさも感じるようになり、香月も出会った頃より声のトーンが丸くなり、自分を一人のバリスタ部員として見てくれている、そんな感じもしてきた。


 蒼太がそう思っていると結は香月に話しかけた。


「先生、ちょっと質問いいですか?」


「勉強の話なら聞かないわよ。私は数学教師で、古文の先生じゃないもの」


「いえ、そうじゃなくて。香月先生って、元々一流のバリスタだったんでしょう? それなのに、どうして数学の先生になろうと思ったんですか? コーヒーの道は、すごく楽しかったんじゃないですか?」


 それは、結だけでなく、蒼太も蓮も密かに抱いていた疑問だった。 香月はタンブラーを傾け、氷の音を響かせた後、静かに口を開いた。


「楽しかったわ。でも、私がバリスタの仕事で最も魅力を感じたのは、芸術性ではないの」


「芸術性じゃない?」


「ええ。コーヒーの抽出というのは、極めて理数的要素の塊よ。豆の質量、挽き目、水温……これは熱力学ね。粒度と湯の落ちる速さ、これは流体力学の範疇。抽出時間も、成分の溶解度と反応速度を計算したものよ」


 香月は言葉を選ぶように続けた。


「数学というのは、世界を最も正確に、最も美しく記述するための言語だわ。私は、その言語を教えたかっただけ。そして、コーヒーはその応用例に過ぎない。誰が、いつ、どこで淹れても、すべてが数値で制御できる。その理論的な美しさに、私は魅せられたのよ」


「すべてが数値で制御できる……」


 その言葉は、中庭の隅で数学の問題集を広げていた望月雫の耳に、明確に届いた。 雫は元々、理数系全般に才能を持つ、部活の理論分析担当だ。彼女は、楓や陸が淹れるコーヒーの「感覚的な美味しさ」を認めつつも、その裏にある「再現性のなさ」を、科学者としてどこか受け入れきれずにいた。


 香月の言葉は、雫の探求心を根底から揺さぶった。 『すべてが数値で制御できる。感情はノイズ、理論こそが究極の答えだ』 雫は鉛筆を握りしめ、問題集の余白に「コーヒー抽出の万能方程式」という言葉を走り書きした。彼女の中で、コーヒーの淹れ方を芸術ではなく、「完璧な科学」として捉え直す、新たな使命感が芽生えた瞬間だった。

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