1.影の練習と「焦燥」の香り
五月の陽光が中庭の人工芝を照らし、季節が初夏へと向かう頃、木漏れ日テラスの日常は、新人である1年生トリオの成長によって、確かな安定感を増していた。
清掃と豆の管理を担う蒼太は、繊細な嗅覚を活かした在庫管理を習得し、蓮は、たい焼きの焼き加減を完璧にコントロールする職人技を身につけた。結は、客のニーズを瞬時に察知する広報とフロアの要となり、彼らはすでに、テラスの主要な戦力となりつつあり、接客統括の沢村陸も安心して仕事を任せられる状況だった。
しかし、その安定に、陸が不在となるという大きな波風が立とうとしていた。
陸は、楓に硬い表情で頭を下げた。彼の目には、いつもの屈託のない明るさとは違う、強い決意と、わずかながら張り詰めた緊張感が宿っていた。
「楓さん、来週土曜日の近隣校との練習試合まで、一週間、野球部の助っ人として集中特訓に入ります。シフトを空けることになります。ご迷惑をおかけします」
陸の運動能力は、星陽高校の中でも群を抜いており、特に瞬発力と持久力はプロ級のポテンシャルを秘めていた。彼が助っ人として他部の危機を救うのはもはや恒例行事だったが、今回の依頼は、単なる友情や助け合いを超えた、野球部の夏の大会の運命を左右しかねないものだった。
「春季大会で負傷した主力選手が一人、まだ走塁と守備に戻れないんです。代わりはいるんですが、今回の対戦校は夏の大会のシード権を争う重要なライバル校で、その緻密な機動力、特に盗塁やバント処理のデータ分析に非常に有意義な相手だと聞いています。その試合を、戦力不足で流すわけにはいかない。特に、相手の機動力を封じ、さらにこちらの攻撃に火をつけるために、俺の守備と、走塁が必要だと、城戸たちに熱心に頼まれました」
非公式の練習試合とはいえ、その内容は夏の大会を見据えた、極めて重要なミッションだった。陸が野球部に加わるのは、テラスの運営を一時的に犠牲にしてでも優先すべき、高校生としての合理的な理由があった。陸は、頼まれたからやる、というだけでなく、チームの勝利に貢献することを使命だと考えており、助っ人として最高のパフォーマンスを出すという自分自身へのノルマを課していた。
楓は、静かに陸の覚悟を受け止めた。
「分かったわ、陸。テラスのことは私たちに任せて。あなたは野球部の使命を全うしてきて。あなたが、心置きなくプレーできるように、最高のテラスを維持するわ。テラスは、あなたの功績を称え、あなたの疲れを癒す場所。疲れて帰ってきた時、ここがあなたの帰る場所だと、しっかり証明しておくから」
蒼太は、陸の横顔から目を離せなかった。陸からは、普段の爽やかさに加え、この特訓開始直前から、アスファルトと土の匂いに混ざって、「勝利への強い渇望と、それ故の微かな焦燥の匂い」が漂い始めているのを嗅ぎ分けた。この焦燥感は、彼が自分自身に課している「期待値」の高さ、つまり「助っ人としてチームに完璧な結果を残さなければ、自分の居場所の価値がない」という完璧主義と深く結びついていることを、蒼太は直感した。
(陸先輩の匂いは、勝利への意欲だけでなく、『失敗したらどうしよう』という自己否定の予兆を含んでいる。あの匂いは、結果が出せなかった時に、その自分を許せない厳しさの匂いだ…誰かが、彼の心の重荷を取り除いてあげなければならない)
その時、一人の青年がテラスに入ってきた。引き締まった体躯に、鋭い眼光を持つ、野球部エースの城戸 健太だ。彼は陸の親友であり、この特訓を依頼した張本人だ。城戸は、陸の能力を誰よりも信頼していると同時に、彼の精神的な繊細さも理解していた。
「橘部長、改めまして。城戸です。陸は最高の助っ人ですが、一つだけお願いがあります。あいつは繊細なんです。守備や走塁でチームに貢献しても、打撃で一本出せないと、その貢献のすべてを帳消しにしてしまうほど、ひどく落ち込む癖がある。チームメイトとして、多少の失敗があっても、僕らはあいつの功績は当然だと思っているんですが…どうか、試合当日、陸の心までケアしてやってください。技術的なコンディションよりも、精神的なコンディションこそ、彼にとって一番の課題なんです」
エース自らの、親友を思いやる真摯な依頼に、楓はテラスの使命を再認識する。それは、ただコーヒーを提供するだけでなく、生徒の心身の健康を支える「心の医務室」としての役割を果たすことだ。
「城戸くん、ありがとう。テラスは、陸の心身の回復を担うホームグラウンドよ。最高の準備をして待っているわ。私たちバリスタ部員は、一杯のコーヒーに、そのプロ意識と愛情、そして科学的な根拠を込めるわ」
陸が不在になる一週間、テラスのメンバーは、陸の役割である接客統括とフロアマネジメントを分担して運営する体制に入った。それは、1年生トリオにとって、日頃の訓練の成果と、テラスの品質を部外に証明する、絶好の機会となった。




