2.中庭の異空間と、予期せぬ香り
開口部をくぐり、中央中庭に足を踏み入れた瞬間、蒼太は自分が別の世界に迷い込んだかのような錯覚に陥った。
ロの字型校舎に囲まれた空間の頭上には、半透明の幕式天井が張られ、直射日光を遮りながらも、均一で柔らかい光を全体に降り注いでいる。足元は鮮やかな人工芝で覆われ、その一角に、ガラス張りの東屋のようなカフェスペースがあった。
「ああ、そういえば…」
蒼太は入学前に目を通した学校案内パンフレットの隅を思い出した。この高校には、生徒たちが運営する本格的なカフェがあるという。バリスタ部という名称だったか、それとも単なる調理部の一環だったか、曖昧な記憶だった。そのカフェの看板には、優美な筆記体で「木漏れ日テラス」と書かれていた。
カフェの中の空気は、外の喧騒とは隔絶されていた。バスケットボールの弾む音も、生徒たちの高い笑い声も、ここでは穏やかなBGM(静かなジャズ)に打ち消されている。空間を支配しているのは、ただ温かく、幸福感に満ちた匂いだけだった。
蒼太は、誰にも邪魔されないよう、カフェから少し離れたベンチに座った。そのベンチからは、東屋の中の活動がよく見える。
中では、おそらく上級生であろう数人の生徒が、手際よく作業を進めていた。
まず目についたのは、ピカピカに磨かれた巨大なエスプレッソマシンだった。高校の部活動室にあるような代物ではない。その前には、明るい茶色の髪をした、背の高い女性の先輩が立っていた。
彼女は、客から注文を受けると、にこりと穏やかに微笑む。その笑顔は、蒼太がこれまで見てきた誰よりも自然で、飾りがなく、彼の緊張した心臓の鼓動を少しだけ緩める力を持っていた。彼女が、手早くマシンを操作し、銀色のタンパーでコーヒーの粉を均一に押し固め、レバーを引く。
「キィィィィィ…シュルルルルル」
エスプレッソを抽出する重厚な機械音。そして、ノズルからトロリと落ちてくる、蜂蜜のような濃いコーヒー液。その瞬間、カフェの香りは一気に深みを増した。
その女性の先輩の横には、体格のいいがっしりとした体型の男子生徒がいた。彼は豪快な笑顔で、カウンター越しの客(制服のポケットから野球ボールが覗いている生徒だった)と、大声で笑いながら会話している。
「おう、今日は特別ブレンドだぜ!うちの技術担当が、今日の練習の疲れに合うってさ!」
さらに奥のキッチンを覗くと、白衣のようなエプロンをつけた女子生徒が、小さなスケールと温度計を真剣に見つめていた。彼女は手に持った器具を動かしながら、隣の男子生徒に小さな声で指示を出している。その動きは迷いがなく、まるで実験室で精密な作業をしている科学者のようだった。
蒼太は、その様子を息をひそめて観察した。誰も彼に気づかない。会話をする必要もない。ただ、この空間の「音」と「匂い」を享受しているだけでいい。それだけで、彼は生まれて初めて「居ていい場所」にいるような感覚を覚えた。
その中で、蒼太の目と鼻は、ある特定の作業に釘付けになった。カフェの片隅には、巨大な鉄板が置かれ、たい焼きの型が並んでいる。「チリチリ…」とバターが焦げ付く直前の甘い音。そして、濃いコーヒーの匂いとはまた違う、砂糖と小麦粉が熱せられる、幸福な甘い匂い。
たい焼きの鉄板の前には、蒼太と同じく真新しい制服を着た一人の男子生徒がいた。彼もまた、蒼太と同じ新入生に見えたが、その表情は極めて真剣だった。彼は言葉を発せず、たい焼きの型をひっくり返す動作を、ただひたすら、完璧なタイミングで繰り返していた。
その彼の隣では、もう一人の女子生徒が、スマホで焼き上がったたい焼きの写真を撮りながら、「うん、可愛い!これは絶対インスタ映えする!」と楽しそうにしている。
(ああ、僕だけじゃない。このカフェに惹かれているのは)
蒼太は、彼らが誰なのかは知らない。しかし、彼らは皆、それぞれの役割を持って、この「木漏れ日テラス」という空間を構成している。
「あの…」
意を決し、蒼太は再びカウンターへ向かう。誰も彼を見ていない今がチャンスだ。カウンターには、さっきエスプレッソを淹れていた、穏やかな笑顔の女性の先輩が立っていた。
「いらっしゃい。ご注文は?」
蒼太は、事前に頭の中で組み立てておいた言葉を、震える声でなんとか絞り出した。
「あの、ドリップコーヒーを、一番…酸味の少ないもので、お願いします」
女性の先輩は、その言葉を聞き終えると、表情一つ変えずに、穏やかな声で応じた。
「ありがとう。酸味が少ないものね。ちょっと苦めに寄せるブレンドにするね。今日一日、緊張したでしょ?少しホッとする味だよ」
その言葉は、まるで魔法のようだった。蒼太は、自分の内心を瞬時に言い当てられたことに動揺し、彼女の顔をまともに見ることができなかった。ただ、その先輩の「声」と「表情」が、とても温かく、自分を否定しないものだと感じた。
彼女がドリップケトルを手に取り、コーヒーの粉が入ったドリッパーにゆっくりと湯を注ぎ始めた。その湯気の向こうで、蒼太は初めて、この場所が自分の「居場所」になるかもしれないという、微かな希望を抱いた。




