5.言葉の檻と、繋ぐ笑顔の力
蒼太にとって、接客訓練は自己否定の連続だった。彼の超繊細な嗅覚は、人の感情の匂いまでも敏感に察知してしまう。特に「困惑」や「苛立ち」の匂いは、彼の心を深く傷つけた。
接客統括の沢村陸を客役に、注文を受けるシミュレーションを繰り返す。陸は、笑顔で快活な客を演じるが、蒼太は目の前に立つその「人間」の存在だけで、身体が石のように固まってしまう。陸の快活な笑顔さえも、彼には「期待」という名の重圧の匂いに感じられた。
「い、いらっしゃいませ…あの、ご注文は…」
蒼太は、声が上ずり、視線が定まらない。
「おう!蒼太くん!今日はちょっと喉が渇いてるから、フルーティーな酸味がある深煎りブレンドと、餡が多めのたい焼きを一つ頼むぜ!あと、その豆の産地と、お前が思う相性を教えてくれ!」
陸は、わざと複雑で専門的な注文をする。
蒼太の脳内はパニックだ。フルーティーな深煎り?矛盾している!餡が多め?そして、陸の屈強な笑顔の裏にある、指導者としての厳しい視線。
「あ、えっと…ふ、フルー…その…匂いが…」
言葉が出ない。彼の頭の中では、数十通りの返答が瞬時にシミュレーションされ、全てが「不適切」という結論に至り、言葉の出口が完全に塞がれる。
陸は、厳しい表情に戻る。
「ダメだ、蒼太くん。お客さんを待たせるな。言葉に詰まってもいい。しかし、笑顔とアイコンタクトで、『聞いています』という意思を伝え続けろ。客は、自分の話を聞いてもらっているか不安になるのが一番嫌なんだ。沈黙は、不安の匂いだぞ」
陸の指導は、あくまでプロの基本に忠実だったが、蒼太の「言葉の檻」は深かった。彼は、完璧な言葉で返せない自分を恥じ、さらに硬直する。陸が立ち去った後、蒼太は悔しさに、鼻の奥がツンとするのを感じた。
ここで、指導役は結に交代した。結は、蒼太の特性を理解し、陸とは全く逆のアプローチを取った。
「陸先輩の言うことも正しいけど、蒼太くん。私からの特訓は、『言葉を捨てる練習』だよ」
結は、優しく、しかし真剣な目で蒼太を見た。
「え…言葉を、捨てる?」
蒼太は戸惑う。彼の世界では、言葉こそが、彼を苦しめる最大の障害だったからだ。
「そう。蒼太くんは、完璧な敬語や、完璧な説明をしようとしすぎて、頭の中でシミュレーションが暴走するんでしょ?だから、言葉は、注文の『記号』として、最低限だけ使う。あとは、私みたいに、笑顔と、相手への『気遣い』でカバーするの。私が、ジェスチャーとアイコンタクトだけで、注文を伝えるから、蒼太くんは、それを復唱する練習だけをするのよ」
結は、蒼太を前に立たせ、再び客役を演じた。
「いらっしゃいませ…」
結は満面の笑顔で、しかし何も言わずに、指でブレンドコーヒーを指し、次にたい焼きを指し、最後に自分の胸をトントンと叩き、確認を促すジェスチャーをした。
蒼太は、結の純粋で、悪意のない笑顔に、少しだけ緊張が解けるのを感じた。結のジェスチャーは、「私はこれでいいですか?」という、言葉よりも明確なメッセージとして彼の心に入ってきた。
「じゃあ、ブレンドコーヒーと、たい焼きをお願いします」
結は、簡単な注文を、今度は口頭でする。
蒼太は、陸との練習を思い出し、言葉に詰まる前に、口角を無理やり上げ、アイコンタクトを試みる。
「…ブ、ブレンド、コーヒーと…たい焼き。ありがとうございます!」
言葉は詰まったが、初めて、客の目を見て、笑顔で返答できた。彼の笑顔は不器用だったが、その瞳には真摯な光が宿っていた。
結は、大袈裟なほどに喜んだ。
「満点!完璧だよ、蒼太くん!言葉は詰まっても、蒼太くんの『真面目さ』が伝わった。お客さんは、完璧な接客よりも、『私を大切にしてくれている』という気持ちが伝わるのが嬉しいの。蒼太くんの武器は、『繊細な気遣い』よ。それを笑顔で包む練習をしよう。さあ、次は、目線の練習よ。私の左目の奥を見てごらん!」
蒼太は、結の特訓で、接客に対する視点が完全に変わった。完璧な言葉ではなく、「相手への思いやり」という、自分の繊細な感覚が活かせる領域を見つけたのだ。彼は、結の笑顔の裏に隠された、人への配慮と努力を知り、彼女への信頼を深めていった。




