3.職人の苛立ち:感覚と理論の対話
本入部テストの日程が決まって以来、バリスタ部の練習は、これまでの和やかなムードから一変し、真剣な訓練の場へと変わった。特に、1年生トリオの不得手な分野を克服するための、「相互指導」が始まった。彼らは、互いの弱点を補い合うことで、全体としてのレベルアップを図る必要があった。
蓮にとって、最初の試練は、ブレンドコーヒーの抽出だった。彼は和菓子の世界では完璧主義者だが、コーヒーの扱いは不慣れだった。
「ちっ…まただ。豆の量が15.0グラム、湯温は92.5℃、蒸らし時間30秒。望月先輩の指導通りに、湯の流量計を見ながらやっているのに、なぜ味がブレる?データ上、全てが完璧なはずだ!」
蓮が淹れたコーヒーは、見た目こそ湯の落ちる速度も均一で完璧な抽出に見えたが、一口飲むと、妙な渋みが舌に残る。たい焼きの配合であれば、失敗の原因は餡の水分、生地のグルテン、鉄板の温度という明確な数値で分析し、調整できる。しかし、コーヒーは、流し込む湯の速度、ドリップポットのわずかな手の揺れ、抽出中に変化する豆の膨らみ、そして外気温という、極めて曖昧で非線形な要素に左右される。蓮はその不確実性に耐えられなかった。
「潮崎くん。データだけでは、コーヒーは淹れられないわ」
望月雫は、冷たく突き放す。理知的な雫だが、コーヒーの抽出に関しては、理屈を超えた「経験」の重要性を強調した。
「あなたの淹れたコーヒーは、数値上は正しい。しかし、結果的に、香りの成分が十分抽出できていない。その渋みは、過剰抽出のサインよ。それは、あなたの手が、豆の『声』を聞いていないからよ。豆が何を求めているのか、それを察知する必要がある」
蓮は、理系の雫が「声」という情緒的な言葉を使うことに、さらに苛立ちを覚えた。
「『声』ですか?科学的な根拠はどこにあるんですか、望月先輩?その『声』を、数値化する方法は?」
「根拠は、テイスティングの結果よ」
雫は、蒼太を指差した。
「蒼太くん。あなたの鼻で、蓮くんのコーヒーを分析しなさい。『声』を言語化できるのは、このテラスであなたしかいない」
蒼太は、カップを手に取り、恐る恐る口に含む。彼は、味覚だけでなく、カップから立ち上る湯気の中に含まれる、無数の香りの分子を嗅ぎ分けた。この瞬間、彼の世界は、色彩を失い、「匂いの情報」に支配される。
「あの…渋みは…ほとんど感じません。ただ、その…奥のほうに、オレンジのような、華やかな匂いが、少しだけ籠もっている気がします。深煎りの豆なのに、その透明な酸味の匂いが、閉じ込められている感じです。最後まで、その匂いがパッと出てこない、というか…まるで、『薄いガラスの蓋』がされているみたいです」
蒼太のフィードバックは、蓮と雫に衝撃を与えた。一般的なテイスティングで使われる「渋い」「苦い」といった言葉ではなく、「籠もっている匂い」や「薄いガラスの蓋」という、極めて個人的で、そして驚くほど正確な、感覚の表現だったからだ。
蓮は、蒼太の言葉をヒントに、再びドリップポットを握る。
「『籠もっている』…つまり、完全に開ききっていない、ということか。抽出効率の問題か…」
蓮は、抽出の後半、湯の流し込みを意識的に僅か0.5秒だけ遅くした。湯を注ぐ高さをわずかに上げ、水流を細く、より円錐状に絞り込んだのだ。たったそれだけの変化で、抽出時間は数秒伸びた。
再度テイスティングをする蒼太。彼は深く息を吸い込み、一口含む。
「すごい!パッと、弾けました!オレンジの匂いが、奥から前に出てきた感じです!ガラスの蓋が外れて、華やかな香りが一気に広がります!これなら、たい焼きの甘さを邪魔しません!深煎りのコクと、浅煎りの透明感が、初めて両立しています!」
蓮は、額に汗を浮かべながら、抽出されたコーヒーを見つめた。
「…そうか。俺のたい焼きは、数値の積み重ねだ。だが、コーヒーは、この日向の感覚を、俺の理論と技術で裏付け、再現しなければならない。曖昧な『感覚』が、正しい道を示すことがある…コーヒー抽出の奥深さを、思い知らされたな」
蓮は、コーヒーへの「感覚」を教える蒼太の言葉を信じ、自分の理論と結びつける訓練を重ねる。二人の間に、「感覚」と「理論」という対極の才能を交換し合う、強固な連帯が生まれた瞬間だった。彼らの共同作業は、テラスの品質を飛躍的に高める可能性を秘めていた。




