4.非合理な情熱
夜の8時。職員室の明かりもまばらになり、他の教師たちが「テスト期間は早く帰れるからいい」などと軽口を叩きながら去っていった後、香月は重い腰を上げた。
明日の試験問題の最終校正を終え、彼女は静まり返った、冷気が床に這うような廊下を歩く。
ふと、視線が中庭へと向いた。
木漏れ日テラス。
休業中のはずのその場所で、わずかに、本当にわずかに光が漏れている。
(……立ち入り禁止だと言ったはずよ。あの子たちは、私の言葉を軽んじているの?)
香月は苛立ちを込めて眉をひそめ、足早にテラスへと向かった。厳しい言葉を浴びせるつもりで幕の隙間から中を覗くと、そこには二人の影があった。
蒼太と、望月雫だ。
二人は、カウンターの下に潜り込み、スマートフォンのライトを頼りに、エスプレッソマシンの複雑に絡み合った内部を照らしていた。
「雫先輩、この三方弁のパッキン、少し硬化してないですか。指で押すと微かに反発が鈍い気がします。わずかに圧力の逃げがあるかもしれません」
蒼太の声は、教室で見せる自信なさげなものとは異なり、静かだが強い、確信に満ちた熱を帯びていた。
「……摩耗係数は許容範囲内よ、蒼太くん。今の抽出データ、ログを見る限り、カップクオリティへの影響は0.1%未満。テスト明けの営業には全く支障ないわ。合理的に考えて、交換は次回の定期メンテで十分」
メンテナンス担当の雫が、論理的な正論で淡々と答える。
「でも、その0.1%が……今日の一杯を楽しみに来た誰かにとっての『いつもと少し違う』になるかもしれません。もしその人が、すごく落ち込んでる日だったら、その微かな苦みが致命的になるかもしれないと思うと……」
香月は、足を踏み出そうとして、凍りついたように止まった。心臓がドクン、と大きく脈打つ。
「営業再開の日の、最初の一杯。……結さんがフロアで最初のお客さんを迎える時、その人の期待に応えられる最高の一杯を準備しておきたいんです。結さんの笑顔を、僕のせいで曇らせたくない」
「……非効率ね、蒼太くん。休業中なんだから、休み明けの朝に調整すればいいのに。わざわざこんな時に……」
雫は毒づくが、その手は蒼太に言われるがままに、新しいパッキンへと伸びている。彼女もまた、この非合理な情熱に毒されているようだった。
「ごめんなさい。でも、なんか……気になってしまって。お客さんの笑顔とか、あの一瞬の驚きとか、そういうのって、マシンが完璧じゃないと作れない気がします。僕には、先生みたいな完璧な理論はないから、せめて手間だけは惜しみたくありません」
蒼太は、不器用な手つきでマシンの金属部分を丁寧に磨き始めた。
ライトに照らされた彼の横顔は、真剣そのものだった。
そこには、報酬も、賞賛も、名誉もない。学年末テストという直近の危機すら、彼の頭からは消えているようだった。
ただ、いつか目の前に座る「誰か」のために、今できる最善を尽くすという、あまりにも非合理で、数値化できない純粋な「情熱」だけがあった。
(……馬鹿ね。本当に、救いようのない馬鹿だわ)
香月は、暗闇の中で自嘲気味に、けれどどこか愛おしさを孕んだ溜息を吐いた。
かつての彼女は、その「非合理」を、効率と理論の名の下に切り捨てた。
理論こそが正義であり、感情はノイズだと信じて疑わなかった。
だが、この内気な少年は、ノイズであるはずの「相手への想い」を、技術の真ん中に置いている。あるいは、その想いを実現するために、技術を磨こうとしている。
香月が親友の一杯で失ってしまったもの。エイドリアンがロンドンのラボで追求しようとしている、冷たくて乾いた「完璧」とは全く別の、何かがここにはあった。それは、数学では決して説明できない、矛盾に満ちた誠実さだった。
香月は、彼らに声をかけることなく、静かに、足音を忍ばせてその場を去った。
自分の心臓が、少しだけうるさく鼓動している。それは、厳密に構築された彼女の内部回路が、未知の変数によってバグを起こしているかのようだった。




