2.冷徹な秒針:5月11日の宣告
仮入部から一週間が過ぎ、4月も下旬に差し掛かった金曜日の放課後。部員全員が控室に集められた。いつもならコーヒーの香りと笑い声が満ちる部室の空気は、普段の和やかな練習とは異なり、張り詰めていた。まるで、熱いエスプレッソを凍らせたような、冷たく硬質な緊張感だった。顧問の香月が、静かに、しかし有無を言わさぬ威厳をもって、黒板の前に立っている。彼女の背筋はピンと伸び、その視線は部屋の隅々まで行き渡っていた。
「一年生。あなたたちの仮入部期間は、残り約二週間だ」
香月は、細い指でチョークを掴み、黒板に日付を書き入れた。チョークが黒板を擦る、わずかな音が、部室の静寂を切り裂く。
『5月11日(土) 本入部テスト実施』
「今日から数えて、あなたたちに残された時間は、わずかだ。橘部長は、あなたたちの才能を信じて、この部活に招き入れた。しかし、このバリスタ部が、プロ意識を持ってお客様に価値を提供し続けるためには、全員が一通りの仕事を完璧にこなせることが最低条件だ。テラスの品質は、一部の天才の力でなく、全員の安定した実力によって支えられる」
香月は、三人の顔を順に見つめた。その視線は、彼らの心の奥底を見透かすように鋭い。
「テスト内容は、既に伝えてある通りだ。そして、改めて明確にしておく。テストは、最低基準をクリアするためのものであり、それは『お客様に提供できる品質』を意味する。この基準に達しない者は、容赦なく不合格、即退部とする。部員は、ただの生徒ではない。このテラスのプロフェッショナルなのだ」
香月の言葉は、一切の感情を排した、冷徹な事実の提示だった。彼女の指導方針は、常に結果と品質に重きを置く。彼女はその細い指で黒板に更に書き足した。
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『星陽高校バリスタ部テスト基準』
1.ハンドドリップによるブレンドコーヒーの安定した抽出(味覚・視覚・時間)
2.たい焼きの正確な製造(形、焼き色、餡の量)
3.最低限の接客(アイコンタクト、笑顔、注文の正確な復唱)
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「テストの項目はこの三つ。一つ、ブレンドコーヒーの安定した抽出。味のブレや、再現性のなさは許されない。二つ、たい焼きの正確な製造。焼きムラ、餡のはみ出しは、客への裏切りだ。三つ、フロアでの最低限の接客。お客様のニーズを理解し、適切に応対するホスピタリティの基本だ。我々のテラスでは、全員が抽出から会計まで、どこにでも入れる柔軟性が求められる。専門分野に逃げ道はない。それがテラスの強みであり、あなたたちの成長の糧となる」
蒼太の心臓が、激しく脈打った。彼の頭の中で、真っ先に恐ろしい赤信号が点滅したのは、当然ながら三つ目の「接客」だった。彼の内面では、言葉に詰まり、客を困惑させる最悪のシミュレーションが既に始まっていた。
(無理だ。あの陸先輩の豪快な接客。橘部長の包容力のある接客。僕には、言葉で、笑顔で、お客様を安心させることなんて、絶対にできない。僕は、ただの裏方でいたいのに…)
隣では、蓮が腕を組み、不満そうに顔を歪めている。蓮にとって、コーヒーの抽出という曖昧な作業は、自分の完璧主義的な性格と相容れなかった。
「香月先生、俺はたい焼きのスペシャリストとして、餡と皮の化学に集中したいと考えています。コーヒーの抽出は、望月先輩や橘部長に任せるべきでは? 全員が中途半端になるより、特化した方がテラスの品質は向上するはずです」
香月は、蓮の言葉に鋭く反応した。彼女は蓮の才能を認めつつも、その視野の狭さを指摘した。
「潮崎。あなたがたい焼きの職人を目指すなら、コーヒーが、たい焼きの味をどう引き立て、どう打ち消すかを知らねばならない。あなたのたい焼きが、一杯のコーヒーで台無しになる可能性を、あなたは理解しているのか? 専門分野に特化するのは、全ての基礎を理解した後だ。あなたのその驕りが、テストの障害になるだろう。プロは、自分の専門外の知識からも学び、自分の製品に深みを与えるものだ」
結もまた、不安そうな顔で美咲のほうを見ていた。彼女の接客は天下一品だが、繊細な作業が求められる製造には、自信が持てない。
「美咲先輩…私、接客は得意だけど、たい焼きを正確に焼くのは本当に苦手で。焦がしちゃったり、餡がはみ出したり…テストで、蓮くんの足を引っ張りたくないわ」
美咲は優しく結の肩を叩いた。
「大丈夫よ、結ちゃん。蓮くんがいるじゃない。お互いに助け合って、この壁を乗り越えるのよ。テラスのチームワークを、今こそ発揮する時よ」
楓は、静かに部員たちを見つめた後、最後に蒼太に向かって微笑んだ。その笑顔は、厳しい状況下での唯一の温かい光だった。
「蒼太くん。あなたは、接客が一番苦手なことは、私たち全員が知っている。でもね、逃げないで。あなたには、私たちにはない特別な武器がある。その鋭い嗅覚と繊細さをどう接客に活かすか。それが、この一ヶ月の最大の課題よ。私たちは、あなたの個性を潰すつもりはない。それをどうテラスの力に変えるかを見たいの」
蒼太は、楓の視線から、逃げずに頷くことしかできなかった。5月11日。その日は、彼の高校生活が、希望に満ちたテラスで続くか、それとも孤独な教室に戻るかの、運命の日となった。彼らは、目の前に立ちはだかる、巨大な「プロの壁」に、今、向き合わなければならなかった。




