2.エアメール
職員室は採点と試験作成に追われる教師たちの熱気で息苦しかった。コーヒーメーカーの安っぽいコーヒーの香りが、かえって香月の神経を逆撫でする。彼女は自分のデスクに座ると、数学の教科書の山の下に、その「不純物」を隠すように置いた。
差出人は「エイドリアン・ヴォーン」
その名を目にするだけで、鼻腔の奥に深く、力強く、そしてどこか傲慢なまでのエスプレッソの香りが蘇る。それは彼女がかつて、自分のすべてを賭けていた世界の香り。自分という存在が最も輝き、そして最も鋭く研ぎ澄まされていた時代の記憶だ。
数年前までの香月涼子は、数学教師ではなく、世界の頂点を目指すバリスタだった。
理論を武器に、豆の細胞構造から抽出温度のコンマ一度の変化までを数式化し、完璧な一杯を「制御」しようとした「氷のバリスタ」。エイドリアンは、その彼女の唯一の理解者であり、互いを高め合う宿命的なライバルであり、……そして、確かに愛した人でもあった。
(今さら、何の用だというの……。あの世界にはもう、私の席はないはずなのに)
意を決して、彼女はペーパーナイフで封を切った。
中から現れたのは、重厚感のある厚手の便箋と、一枚の写真。それは、数年前の世界大会での一幕だった。
表彰台の頂点で、優勝カップを抱えて誇らしげに笑う彼女。その隣で、惜しくも二位となったエイドリアンが、悔しさを滲ませながらも慈しむような目で彼女の肩を抱いている。
写真の中の彼女は、今の冷徹な教師とは別人のようだった。頬は高揚し、瞳には情熱という名の色香が宿っている。あまりの眩しさに、香月は思わず写真を伏せた。鏡を見るよりも、その写真は今の彼女の「欠落」を浮き彫りにした。
『涼子、君が日本へ帰り、コーヒーを捨てて数式の世界へ逃げ込んでから、もう3年が経つ。だが、僕の耳には届いているよ。君が東京の高校で、今もなおコーヒーに触れているという噂が。君ほどの才能が、完全に情熱を捨て去ることなど不可能なのだ』
手紙の文字は、エイドリアンらしい力強い、自信に満ちた筆致だった。
『僕は来月、ロンドンの中心部に新しいラボを設立する。科学的アプローチを極め、豆のポテンシャルを極限まで引き出す、最高の一杯を追求するための聖域だ。涼子、君の力が必要だ。君の理論、君の鋭い感覚、そして君という人間が僕の隣にいない今の世界は、あまりに不完全だ。もう一度、世界という名の土俵に戻ってこないか? 学校という退屈な箱庭に、君を閉じ込めておくのは人類の損失だ。君のいるべき場所は、黒板の前ではなく、エスプレッソマシンの前だ』
人類の損失。エイドリアンらしい、自己中心的なまでに巨大な表現だ。
香月の唇がわずかに歪んだ。それは懐かしさゆえか、あるいは呆れゆえか。しかし、その笑みはすぐに消えた。
誘いの言葉は、甘い誘惑というよりは、鋭い外科手術のメスのように彼女の胸を抉った。
あの輝き。あの、研ぎ澄まされた感覚の極致。自分が自分として完成されていた場所。
だが、その輝きの裏側には、彼女が教師になることでしか贖えなかった、底の見えない黒い悔恨が横たわっている。彼女が数学という「正解」の中に逃げ込んだのは、その悔恨に飲み込まれないための、精一杯の防衛手段だったのだ。




