1.無機質な静寂
2月下旬。武蔵野の空は、春の予感さえ寄せ付けないほど低く、重い灰色に閉ざされていた。時折吹き抜ける北風が、校舎の窓をガタガタと震わせる。
私立星陽高等学校の本館中央に位置する「木漏れ日テラス」は、いつもの喧騒が嘘のように静まり返っていた。シンボルである幕式の白い天井は完全に閉じられ、人工芝の上に降り注ぐのは、天窓の汚れを透かした弱々しく、頼りない冬の陽光だけだ。
学年末テスト。それは全校生徒にとって、一年の総決算であり、あるいは残酷な「最後の審判」でもある。バリスタ部にとっても、それは活動の存続に関わる重大なハードルだった。
テスト一週間前から始まった限定営業も、本テスト3日前からは完全休業へと切り替わっていた。カウンターの中は整理整頓され、マシンは眠りにつき、空気中には微かな清掃用洗剤の匂いだけが漂っている。
「……以上が、複素数平面における回転の基本定理です。座標の回転を実数部と虚数部の演算として捉えれば、幾何学的な直感に頼らずとも正確な値を導き出せます」
2年A組の教室。教壇に立つ香月涼子の声は、冷たく、乾いた風のように響いた。
彼女のチョーク捌きには一切の迷いがない。黒板に描かれる数式は、一点の曇りもない論理の結晶であり、そこには感情や体調といった「不確定要素」が入り込む余地など微塵もなかった。彼女にとって、数学とは世界の混沌を整理するための最も純粋な言語だった。
「先生、そこ、マイナスじゃないですか?」
最前列の生徒が、恐る恐る手を挙げる。香月は眉ひとつ動かさず、自身の書いた式を一瞥した。コンマ数秒の検証。
「失礼。符号の書き損じです。計算手順そのものは正しいですが、出力される結果が異なれば、それは解答としては『無』に等しい。……皆さんも、本番ではこの程度のミスで人生を左右されないよう、厳密な確認を怠らないように」
冷徹。理知的。サイボーグ。あるいは「氷の女王」。
生徒たちが陰で囁く彼女の二つ名は、彼女自身にとって、むしろ心地よい勲章だった。数学の世界には、誰が解いても辿り着く唯一無二の「正解」がある。手順を正しく踏み、論理を構築すれば、裏切られることはない。それは、かつて彼女が身を置いていた、正解のない「味」の世界、あるいは予測不能な「人の心」の世界とは対極にある、無機質で安全な安息地だった。
キーンコーン、カーンコーン。
チャイムが放課後の訪れを告げると、教室内には堰を切ったような喧騒が戻る。生徒たちが一斉に溜息をつき、参考書を広げる音が重なる。
「星野、日向」
廊下を並んで歩いていた二人に、香月が声をかけた。
「……はい、先生」
日向蒼太が、亀のように少し首をすくめて返事をする。その隣で、星野結も緊張した面持ちで背筋を伸ばした。
「テスト期間中のテラスへの立ち入りは、原則禁止だ。掃除のボランティアなども、この期間は不要。……わかっているわね? 数学の点数が基準値を下回れば、春休みは強制補習。部活動の再開も認めない」
「わかってます! 私たち、ちゃんと勉強も頑張ってますから。蒼太くんも、今回は数学、手応えあるって言ってますし」
結が努めて明るく答えるが、香月はその瞳の奥に宿る「バリスタ部員としての熱」を直視することを避けるように、視線を事務的に逸らした。
「結構。……解散なさい」
彼女は教卓から教科書をまとめると、足早に教室を後にした。
そのバッグの奥には、今朝、自宅の郵便受けから取り出したばかりの一通の封筒が、その存在感を主張するように沈んでいた。ロンドンからの消印。一度も封を切らずに持ち込んだそのエアメールは、彼女の現在の安穏を脅かす「不純物」のように感じられた。




