4.解けなかった数式
顧問の香月涼子は、そんな生徒たちの交錯する想いを、職員室の窓から眺めていた。
手元のマグカップには、蒼太が淹れたばかりのテストサンプルが入っている。ショコラとエスプレッソが、驚くべき調和を見せている一杯。
(……完璧ね、日向。あなたは、この複雑な変数を、実に見事に調和させてみせた)
香月はふと、自身の数式ノートのページをめくった。そこには、微分積分や統計データの間に、明らかに場違いな「バレンタイン」という文字が、かつて一度だけ書き込まれた形跡がある。
十数年前、彼女がまだ一流のバリスタとして、世界の頂点を目指していた頃。
彼女にも、いた。
理論ではなく、直感だけで最高の一杯を淹れてしまう、奔放な相手。香月は、彼の不規則さを、自分の理論で全て制御し、説明したいと願っていた。
「涼子、コーヒーは数式じゃない。心で淹れるもんだ」
そう笑って、彼は去っていった。ある年の、雪の降るバレンタインの夜。香月が用意していたのは、厳密なカカオ含有量と温度管理に基づいた、理論上最高のガナッシュだった。しかし、それはついに彼に渡されることはなかった。
当時の香月にとって、「愛」という不確かな変数は、自分の完璧な抽出理論を汚すノイズに過ぎなかった。それを認めれば、自分のバリスタとしてのアイデンティティが崩壊するような気がして、彼女は理論の鎧を脱ぐことができなかった。鎧の下にある弱さを、彼に見せる勇気がなかったのだ。
香月は、マグカップから立ち上る湯気の向こうに、かつての自分と、今の結や凛を重ねる。
(あなたたちは、私と違って、その『不確かさ』を恐れていない。……羨ましいわね)
香月は、ノートの隅に「解なし」と書かれたままの古いメモを、そっと指でなぞった。彼女にとってのバレンタインは、あの日以来、止まったままの時計のようなものだった。答えを出せなかった過去が、今の彼女の「理知的すぎる」外面を作り上げていた。




