2.解けない変数
バックヤードの事務デスクでは、副部長の泉真琴が、いつになく真剣な表情で在庫管理表を睨んでいた。
「真琴、その数値を追う指先、昨日より3ミリ秒遅いわよ。集中力が分散している証拠ね。原因は、背後のあの『浮ついた空気』かしら」
メンテナンス担当の望月雫が、ノートパソコンのキーを叩きながら淡々と言った。
「……否定はしないわ。この時期の不確定要素の多さは、管理側としては計算外の連続よ」
真琴は、手にしたペンを置いて深く溜息をついた。
「原材料のチョコの消費予測が立たない。陸が貰ったチョコを材料に転用できれば効率的なんでしょうけど、そういうわけにもいかないし。それに、何よりあの……部内の、この煮え切らない空気感よ」
真琴の視線の先には、品質管理担当の日向蒼太と、広報の星野結がいた。二人の間には、もどかしいほどの沈黙が流れている。
蒼太は、新作のショコラ・カフェ・オ・レのために、チョコの乳化具合を確かめるべく抽出に没頭している。その指先は相変わらず精密で、迷いがない。しかし、結が近づくたびに、彼の耳たぶが微かに赤くなるのを真琴は見逃さなかった。
2人の関係は、この半年間で大きく、そして緩やかに揺れ動いてきた。
7月、結のSNSが心ない炎上に晒され、彼女が「自分はテラスにふさわしくない」と心を閉ざしかけたとき、内気で誰とも目を合わせられなかったはずの蒼太が、彼女のために特別な一杯を淹れ、不器用な言葉で彼女の存在を肯定した。あの日のコーヒーの味を、結は今でも鮮明に覚えている。
9月の星陽祭では、二人っきりの外出、二人っきりの試作、誠実に重なる言葉。共に困難を乗り越えるたびに、2人の距離は物理的にも心理的にも近づいていったはずだった。
しかし、10月、羽純凛という「才能」が現れた。凛は蒼太の技術を正当に評価し、彼と「理論」という共通言語で深く語り合える存在となった。それを見た結の心に灯ったのは、自分にはない圧倒的な専門性を持つ者への嫉妬と、蒼太を遠くに感じてしまうことへの焦りだった。
結は今、メニュー表を整えながら、何度も蒼太の背中を見つめていた。
(あと一歩。蒼太くんが淹れてくれるコーヒーみたいに、素直に混ざり合えたらいいのに)
彼女が手の中に隠しているのは、市販のものではない。自分で何度も失敗し、指先を火傷させながら、温度計と睨み合って作り上げた、不格好な「本命」だ。
結にとって、このチョコを渡すことは、単なる告白ではない。それは、蒼太と程よい関係を保ってきた自分から卒業し、彼と新しい関係を築くための、彼女なりの宣戦布告だった。これまでの曖昧な日々に、自らの手で終止符を打つための、決意の証だった。




