1.微糖な喧騒
2月、立春を過ぎてもなお、武蔵野の風は刺すように冷たい。しかし、私立星陽高等学校の本館中央に位置する「木漏れ日テラス」だけは、どこか春を先取りしたような、密やかな熱を帯びていた。天窓を透かして降り注ぐ陽光は、冬の低い角度から人工芝を黄金色に、あるいは熟成した琥珀色に染め上げている。その光の中で、生徒たちの吐く白い息が、まるで魔法の煙のように舞っては消えていった。
放課後のテラスは、いつも以上の賑わいを見せていた。バレンタインデーを数日後に控え、メニューボードには美術担当の戸田哲也が腕を振るった、可愛らしくも芸術的なハートの装飾が躍っている。
「はい、お待たせ! 特製ショコラ・カフェ・オ・レ。温かいうちにどうぞ」
部長の沢村陸が、その持ち前の快活な声でゲストを迎え入れる。そのカウンターには、すでに数個の、色とりどりのリボンで飾られた小箱が置かれていた。
「沢村先輩、これ。いつも部活の助っ人、ありがとうございます」
「おう、サンキュ! 柔道部の練習、またいつでも呼んでくれよな」
陸は屈託のない笑顔で応じる。彼にとってそれは、文字通り「お礼」としての義理チョコであり、そこに他意はない。しかし、受け取る箱の数は、彼がこれまでどれほど他部活のピンチを救い、周囲の信頼を勝ち取ってきたかの証左でもあった。
その隣で、戸田哲也もまた、注文を捌きながら多くの女子生徒に囲まれていた。
「戸田くん、これ。いつも素敵なラテアートをありがとう。この前の雪だるま、本当に元気がもらえたよ」
「お、マジで? 喜んでもらえて光栄だわ。次はもっと度肝を抜くやつを描いてやるからな」
戸田は、自らの指先から生み出される「消えゆく芸術」への賛辞を、何よりも誇りに感じていた。彼にとってラテアートは単なる技術ではなく、客との一期一会の対話だ。その対話の結果として手渡されるチョコを、彼は一点の曇りもない笑顔で受け取っていく。
だが、その華やかな喧騒を、テラスの端のテーブル席からじっと見つめている少女がいた。美術部一年の萩原澪だ。彼女の膝の上には、スケッチブックではなく、淡いブルーの紙で丁寧に包まれた小さな箱が置かれている。
彼女と戸田の関係は、他の一過性の客たちとは決定的に異なっていた。去年の5月、戸田が「どうせ飲めば消えてしまうものに、時間をかける意味があるのか」と、自身の表現に深い葛藤を抱えていた時期。美術室の隅で、共にデッサンをしながらその迷いに寄り添ったのは澪だった。そして11月、冷え込む夜のテラスで、新しい看板を制作するために肩を並べ、筆先で会話を交わしたあの時間。
(先輩には、たくさんの『ファン』がいる……。でも、私は)
澪は、他の女子が贈る「感謝」の響きと、自分の胸に澱のように溜まっているこの感情の違いを、嫌というほど自覚していた。美術部員として、一人の表現者として、戸田と磨き合ってきた時間は、単なる友情という枠をとうに超えていた。彼女にとってこのチョコは、感謝という言葉では到底覆い隠せない、秘めたる熱量の結晶だった。




