3.テラスの残照と数学的示唆
その日の営業終了後。最終下校時刻が近づき、部員たちが沈んだ足取りで帰宅した後。誰もいなくなったテラスで、真琴は一人、デスクライトの青白い光に照らされていた。
(……どうして私ばかりが悪役にならなきゃいけないの。私は、テラスが破綻しないように、部員たちが失敗しないように管理しているだけなのに。どうして誰も、この『責任』の重さを分かってくれないの?)
数字を見つめていても、部員たちの沈んだ表情や、陸の寂しげな目が脳裏にちらついて離れない。疲れ果てた彼女の視界の中で、計算式が歪んで見える。
「泉。数字は嘘をつかないけれど、扱う者の心が曇れば、主を裏切ることはあるわよ。そろそろペンを置きなさい。計算エラーの元よ」
背後から顧問の香月涼子が、低い、しかし落ち着いた声をかけた。
「香月先生……。まだいらしたんですか」
「数学的な整合性を確認していたら、つい時間を忘れてしまったわ。泉、帰りなさい。心身の疲労は判断力を鈍らせる最大の負の要因よ」
「……あともう少しだけ、明日の発注書のチェックをさせてください。私のミス一つで、テラスの在庫が狂い、営業が止まるんです。誰かが完璧でいなきゃいけないんです」
香月は溜息をつき、真琴の使い古されたバインダーを無造作に、しかし決定的な力で閉じた。
「泉。あなたは半年ほど前、このテラスを閉鎖の危機から救ったわね。あの時、あなたが最後に数式に代入した変数は何だったかしら。思い出して」
「……徹底した経費削減案と、地域連携による付加価値の創出です。それが論理的な最適解でした」
「形式的な答えはそうね。では、実際にその理論というレールの上を走り、テラスという重い列車を動かしたのは何? あなたの計算尺? それとも表計算ソフト?」
香月は、窓の外の暗い中庭、かつて部員たちが必死にビラを配り、客を呼び込んだ場所を指差した。
「……部員たちの、熱意です」
「そう。今のあなたの式には『変数』としての仲間の感情が完全に抜け落ちているわ。計算式は美しくても、それでは何も動かない。泉、真のリーダーの資質とは、自分一人で正解を出し続けることではないの。部員を信じて、彼らが自発的に動けるための『余白』をあえて設計することよ」
「……信じる、ですか。でも、もしミスが起きたら……」
「誤差を埋め、システムを修正するために、あなたという有能な調整役がいるのでしょう? 全ての項を自分一人で制御しきれると思うのは、数学的な慢心よ。仲間に頼りなさい。それが、副部長という役職に与えられた本当の演算権限なのよ」
香月はそれだけ言い残し、夜の廊下へと静かに消えていった。真琴は、暗闇の中でバインダーの感触を確かめながら、立ち尽くしていた。




