1.重なる伝票、擦り切れるペン先
1月下旬。星陽高校の本館中央に位置する、全校生徒の憩いの場「木漏れ日テラス」には、冬の低い陽光が幕式天井の白い布を透かし、人工芝を穏やかな琥珀色に染め上げていた。
放課後のテラスには、コーヒーの芳醇な苦みを含んだ香りと、名物であるたい焼きの焼ける甘く香ばしい匂いが混じり合い、特有の幸福な空気を作り出している。部長に就任して3ヶ月が過ぎた沢村陸の快活な声が、凍てつくような寒風を押し返すように響き渡っていた。
「はい、お待たせ! 焼きたてだから、中身のあんで火傷しないように気をつけてな!」
その隣では1年生の星野結が、北風を溶かすような弾ける笑顔を浮かべ、かじかんだ手をさすりながら並ぶ客を効率よく席へと誘導している。3年生が受験休みに入り、実質的に現役生のみとなった新体制も、3ヶ月が過ぎてようやく各々の役割が馴染んできた。接客から抽出、清掃に至るまで、目に見えて無駄がなくなり、運営はかつてないほど安定しているように見えた。
しかし、その活気溢れるカウンターの最奥、バックヤードへ続く薄暗い事務デスクでは、副部長の泉真琴が一人、眉間に深い皺を刻んで数字の迷宮を彷徨っていた。
「……おかしいわね。昨日のペーパーフィルターの在庫残数と、今日の使用数が一枚合わないわ。抽出ミスがあったなら廃棄ログに記載があるはずなのに。まさか無記入のまま捨てたのかしら。管理の徹底を周知したばかりなのに」
真琴は、愛用の四色多機能ペンを小刻みに走らせ、分厚いバインダーに綴じられた在庫管理表と格闘していた。会計報告、原材料の発注、日々のシフト調整、さらには複雑なエスプレッソマシンの保守点検スケジュール管理まで。生真面目で責任感の強い彼女は、テラスの平穏な日常を維持するために不可欠な、光の当たらない裏方の実務をすべて一手に引き受けていた。その「完璧」への執着は、いつしか彼女自身を静かに蝕んでいた。
「真琴、そのバインダーの厚み。先週と比較して20%増量しているわよ。最適化の観点から言えば、単一の処理系に情報を詰め込みすぎるのは深刻なボトルネックを招くわ。ハードウェアの寿命を縮めるだけよ」
メンテナンス担当の望月雫が、ノートパソコンのキーを叩く手を止めずに、眼鏡の奥から鋭い視線を向けた。
「雫……。情報の集約と一元管理は、効率化の基本でしょう? 誰がいつ見ても状況がわかるように、ログを残しているだけよ」
「それは客観的な管理ではなく、個人的な執着に近いわ。あなたのメンタルの処理能力が限界を超えつつあることを、数値的に予測できるわよ。冷却が必要ね」
雫は淡々と、しかし確かな警告を含んだ口調で告げると、再びエスプレッソマシンの圧力ゲージや蒸気弁の細かな点検作業に戻った。真琴は雫の忠告を頭の隅に追いやり、再びペンを動かした。彼女の「完璧主義」は、新体制を失敗させてはならないという重圧の中で、いつしか「自分一人がすべてを把握し、管理しなければならない」という強迫観念にすり替わっていた。
「真琴先輩、ちょっといいっすか。たい焼きの粉、あと二袋しかないんすけど。これじゃ明日の午後の仕込みが止まりますよ。補充、まだっすか?」
1年生の潮崎蓮が、粉のついたエプロンを払いながら声をかけてくる。新体制になってから、彼はたい焼きの焼きだけでなく、不慣れな会計補助という役割もやることになっていたが、たい焼き以外の在庫管理にはあまり手を出せていなかった。
「ええ、発注は昨日済ませたわ。明日の午前中には届く手はずよ。守衛さんから引き継いで納品書の照合と倉庫への搬入は私がやっておくから、あなたは持ち場を離れずに焼きに専念してちょうだい。それが今のあなたの最優先事項よ」
「あ、そうっすか。……真琴先輩、なんか今日、いつも以上に顔色悪いっすよ。少し奥で休んだらどうすか。数字なんて、明日になっても逃げやしませんよ」
「大丈夫よ。蓮くんこそ、焼きムラが出ないように金型の手入れに集中してちょうだい。職人の矜持はどうしたの?」
蓮は少しだけ不満げに、けれど真琴が放つ、人を寄せ付けないほどに研ぎ澄まされた拒絶のオーラに気圧されたように背を向けた。たい焼き以外の在庫管理などにも携わりたいと考えていたが、この様子だと今日も声をかけることは難しそうだった。
真琴はふう、と重たい溜息をつく。ふと手元を見ると、多機能ペンの黒い芯が、かすれた音を立てて力尽きていた。インクの切れたペン先が、虚しく紙の上を滑る。それはまるで、限界に近い彼女の精神状態を象徴しているかのようだった。




