7.熱の記憶
どれくらい、その冷たい場所で座っていたのだろうか。鼻の奥がツンとするような刺すような寒さに、凛の意識が少しずつ白く塗りつぶされそうになった時。
「……風邪ひくぞ。お嬢様。お前の医療費まで部費で出す余裕はねえぞ」
低く、どこか不機嫌そうで、けれど不思議と耳に心地よい声が頭上から降ってきた。驚いて顔を上げると、そこには赤いサンタ帽もトナカイのカチューシャも、とうの昔に投げ捨てた、いつもの無愛想な潮崎蓮が立っていた。
「……潮崎、くん……。どうして、ここが……分かったのですの?」
「……お前のことだ。一人の時間が欲しい時に、誰も来ないこんなジメジメした場所に来るだろうと思っただけだ。……俺はたい焼き屋だ、熱の在り処を探すのは得意なんだよ」
蓮は、手元に持っていた温かな紙包みを、凛の目の前に無造作に差し出した。中から、優しい湯気と共に、懐かしくて甘い香りが立ち上る。
「……たい焼き?」
「中身、ホワイトチョコとイチゴだ。マーケット限定の余り。……お前の失敗なんて、俺がさっき鉄板の上で全部焼き切って、客の胃袋の中に消してやったよ。だから、もうその話は終わりだ。……お前が今日一日、どれだけ動いてたか、俺が一番近くで見てたからな」
「……っ。でも、私は……私は、取り返しのつかないことを……」
「うるさい。いいから食え。お前がそんな顔して泣いてると、こっちまでたい焼きが不味くなるだろうが。職人のプライドを傷つける気か?」
蓮はぶっきらぼうに言い放ち、凛の隣、冷たいコンクリートの上にドカッと座り込んだ。凛は震える手で、まだ中心に熱を宿したたい焼きを一口、おずおずと齧った。口の中に、暴力的なまでの濃厚な甘さと、包み込むような温かさが広がる。それは、蒼太が淹れる繊細で芸術的なコーヒーとは全く違う、もっと武骨で、直接的で、生きるための「熱」そのものだった。
「……美味しい、ですわ。すごく」
「当たり前だ。俺が、お前のために焼いたんだからな。……不味いわけがねえ」
「……私、蒼太さんが好きでした。……いえ、今も、どうしようもなく好きですわ」
凛は、誰にも、親友にすら言えなかった本音を、蓮にだけは吐き出した。蓮は何も言わず、ただ静かに、雪が降り積もる夜のグラウンドを見つめている。
「でも、今日分かってしまいましたの。あの人の隣には、私じゃない別の『誰か』が必要なんだって。……私がどれだけ背伸びをしても、どれだけ自分を飾っても、決して届かない場所があるんだって。……それが、苦しくて」
「……あいつは、筋金入りの天然だからな。目の前の豆のことしか見えてねえだけだ。お前の価値に気づくには、あいつはまだガキすぎる」
「……。私、潮崎くんのことが、少し羨ましいですわ。あなたは、自分の場所を、自分の腕一本で、誰にも媚びずに作っていて……。私には、それができませんの」
「……。俺も、実はお前が羨ましいよ。……お前みたいに、無様に努力して、ボロボロになって、それでも『完璧』であろうとして足掻き続ける奴は、俺の周りにはいなかった。……お前は、強いよ。羽純」
蓮は、初めて凛の瞳を真っ直ぐに、逸らさずに見た。そこには同情や憐れみではなく、同じ道を行く者への確かな「敬意」があった。
「羽純。……日向の隣が空いてねえなら、別の場所を探せばいい。……例えば、この不味いたい焼き屋の隣とか、な。……ここは、いつでも空いてるぞ」
「……え?」
凛が驚きで目を見開くと、蓮は慌てて耳まで真っ赤にして顔を背けた。
「……いや、今の、聞き流せ。寒さで口が滑っただけだ。……とにかく、泣き止んだなら戻るぞ。片付けをサボるのは、お前の流儀に反するだろうが」
蓮は立ち上がり、凛に向かって大きく、ゴツゴツとした手を差し出した。その手は、たい焼きの鉄板の熱をずっと受け続けてきたせいか、驚くほど温かかった。
凛は、その手を少しだけ躊躇った後、しっかりと、縋るように握り返した。
蒼太への想いが、雪のようにすぐに消えたわけではない。けれど、この瞬間、自分の隣で同じ熱を分かち合ってくれる「灯火」の正体を、彼女は確かに、そして温かく感じ取っていた。




