5.恋愛とコーヒー
即興で生み出されたブレンド『聖夜の灯火』は、その深い物語性と共に、瞬く間にマーケットの伝説となった。一杯ごとに表情を変えるような複雑なコクと、雪解けのように優しい、けれど力強い後味。それは、完璧な既製品の高級豆がもたらす感動とはまた違う、作り手の熱量と「今」という瞬間が直接伝わってくるような、温度のある味だった。
「ふう……ようやく、少し落ち着いたかな。でも、まだ注文の紙が止まらないね」
結が額の汗を拭い、カウンターに小さく寄りかかる。ピークの山を越え、テラスにはようやく穏やかで、贅沢な夜の時間が流れ始めていた。
「お疲れ様。みんな、いい顔してるじゃない。最高のクリスマスね」
不意に、雪の降る夜空から舞い降りたような、透き通った柔らかな声が届いた。振り返ると、そこには厚いダッフルコートやダウンを着込んだ、楓、翔、美咲の3年生たちが立っていた。
「楓さん! 翔さんも、美咲さんも! 受験勉強は大丈夫なんですか?」
「勉強の息抜きに来てみれば、こんなに素敵な魔法がかけられているんだもの。……あの噂の一杯、私たちにも淹れてくれるかしら?」
楓の、すべてを包み込むような聖母のような微笑みに、現役部員たちは一気に肩の力を抜くことができた。蒼太が、今日一日の感謝を込めて丁寧に淹れた一杯を差し出すと、楓は目を細め、立ち上がる湯気を愛おしそうに吸い込んだ。
「美味しい……。蒼太くん、あなた本当に、遠いところまで来たわね。この味は、知識だけじゃ届かない。去年の私たちには、逆立ちしても淹れられなかった味よ」
「いえ、そんな……。先輩たちが守ってくれた場所があったからこそです」
「……ま、相変わらずマシンの抽出圧の微細な変動に鈍感なのは気になるがな。後で俺が調整してやる。……いい顔になったな、蒼太」
翔がぶっきらぼうに笑い、美咲が「相変わらずね、翔くんは素直じゃないんだから」と呆れたように、けれど誇らしげに笑う。引退した先輩たちが、自分たちが命を削って守ってきた場所を、眩しそうに見つめる姿。それは、バリスタ部という場所が持つ、単なる部活動を超えた、時間のバトンと絆の深さを感じさせる光景だった。
一方、カウンターの奥の暗がりの特等席では、望月雫と泉真琴、そして仕事を終えたばかりの香月が、「大人の女子会」を繰り広げていた。
「……蒼太くんの今回の配合。ブラジルの比率を通常より5パーセント、エチオピアを3パーセント上げたことで、冬の乾いた外気による味覚の鈍麻を完璧に補正しているわ。……これは偶然ではなく、彼の本能的な計算ね。驚異的だわ」
雫が、熱心にタブレットに数値を記録し、一人で学術的な興奮に浸っている。
「雫、今は数字よりも、あっちを見てよ。凛ちゃんのあの、今にも崩れそうなのに必死で支えている顔」
真琴が指差す先では、凛が先輩たちに気丈に挨拶をしながらも、時折蒼太に向ける視線に、隠しきれない情熱と、それ以上に切ない「諦め」のような色が混ざり合っていた。
「……蒼太くん本人は全く気づいていないようだけど。これはまさに『恋の変数』がシステムの安定性を根底から揺るがしている、カオス理論の状態ね。美しいけれど、残酷だわ」
「あら、望月。あなたにしては、随分と人間臭い文学的な分析をするじゃない」
香月が、スパイスを効かせた特製ホットチョコレートを片手に加わる。
「香月先生! ……でも、凛ちゃんも大変ですよね。ミスを乗り越えたのは素晴らしいですけど、蒼太くんと結ちゃんのあの、触れなくても繋がっているような距離感……。私でも、ちょっと胸がチクチクしますわ」
「……恋愛もコーヒーの抽出と同じよ、真琴。どれだけ完璧な温度と比率を設定しても、最後に味を決めるのは、その瞬間のちょっとした『手の揺らぎ』。……羽純には、いい試練かもしれないわね。同じ女性としては、あんなに不器用な子は応援したくなるけれど。……さあ、私たちももう少し、この甘い時間を楽しみましょう」
香月が、少しだけいたずらっぽく、そして慈愛に満ちた目で教え子たちを見つめる。テラスの華やかな喧騒から一歩離れた、知的な女性たちによる密かな観測。それは、1年生たちの熱い人間ドラマを静かに見守る、冬の夜空に瞬く一等星のような視線だった。




