6.不確かな最適解
部員たちが帰り、静まり返ったテラスに、雫は独り残っていた。最後の手順としての後片付けを終え、彼女は自分用の、おかわりの一杯を淹れた。今度は、最初から温度計も、計量カップも、タイマーも使わなかった。
手のひらに伝わるカップの重み。攪拌する時に指先に伝わる、液体の粘性の抵抗感。自分の感覚だけを頼りに、その瞬間の自分の心が求める「ちょうど良さ」を、暗闇の中で探っていく。それは暗闇の中での手探りだが、不思議と迷いはなかった。
「……完成ね」
出来上がった一杯は、やはり彼女が作ってきたどのマニュアルとも違うものだった。少しだけ不格好で、けれど今の自分そのもののように誇らしい。雫はそれを持ち、テラスの端、一番ストーブの熱が残っているベンチに座った。見上げれば、冬の星座たちが、冷たい夜空で競い合うように、その光を地上に届けている。
「……解析不能。けれど、許容範囲内。いえ……、今の私には、これこそが必要な数値だったのかもしれないわね。定義できないものを、定義しようとしていた私への解答……」
雫は小さく呟き、ショコラトルを啜った。濃厚なカカオの香りが鼻を抜け、心地よい熱が喉を通って五臓六腑にまで広がっていく。この甘さは、きっと明日には公式のように暗記できるものではないし、試験用紙に記述できるようなものでもない。期末試験の数学の難問のように、一度解法を覚えれば何度でも再現できるような、便利なものではないからだ。
しかし、雫はカバンからボロボロになった自習用のノートを取り出し、新しい真っ白なページに、決然とした筆致でペンを走らせた。
『事象:12月上旬、限定営業下のテラスにおける熱交換。
変数:外気温、体温、疲労度、および観測者の主観的温度。
結論:最適解は普遍的ではない。それは常に、他者との相互作用(干渉)によって、その一瞬ごとに生成される特異点である。観測者は系の一部であり、その温度を無視した計算は常に誤りを含む』
雫はそこでペンを止め、少し考えてから、余白に小さな、歪な星のマークを書き添えた。それは彼女にとって、初めて「ロジックの檻」の外側で見つけた、かけがえのない、けれど決して数値化できない観測結果だった。
「……さあ、帰りましょう。明日もまた、私の計算を心地よく狂わせる新しい変数が増えるはずだから」
雫は眼鏡をクイと直し、立ち上がった。冬の夜気は鋭く冷たい。けれど、マフラーに顔を埋めた彼女の頬は、先ほど飲んだショコラトルの残り火のように、ほんのりと、そして心地よく温まっていた。
星陽高校バリスタ部『木漏れ日テラス』にて、解析不能な冬の熱気は、甘酸っぱい残香をテラスに残して、静かに夜の奥へと消えていった。




