7.衛生管理と職人の誓い
午後6時。営業が終了を告げるチャイムが鳴る。
テラスは、数分前までの喧騒が嘘のように静まり返っていた。しかし、上級生たちの動きは止まらない。片付けこそが、プロ意識が試される最後の工程なのだ。新入生たちは、上級生たちに教えられながら、初めての片付け作業を手伝う。
「蒼太くん、そのテーブルはアルコールで拭いてね。特に、カップの跡や、たい焼きの餡の僅かな跡も見逃さないで。蓮くん、器具の洗浄をお願いね。エスプレッソマシンのトレイは外して、豆のカスを徹底的に洗い流して!結ちゃん、フロアのゴミと、使用済みナプキンのチェックお願いね!」
陸が指示を出し、上級生たちは疲れた様子も見せず、テキパキと動き回る。
蒼太は、慣れない作業に手間取った。テーブルに残されたわずかなコーヒーの匂い。それは、ただの汚れの匂いではない。客が過ごした時間の「熱」と「残り香」のようなものだ。それを完全に消し去り、明日、新しい客を迎えるための「真っ新な舞台」を作り上げなければならない。彼は、布巾に力を込め、何度もテーブルを磨いた。
隣では、蓮が驚くほどの几帳面さで、たい焼きの鉄板と、餡を扱う道具を磨いていた。彼は、小さな焦げ付き一つ、洗い残し一つ見逃さない。その集中力は、一種の儀式のようだった。蓮は、作業中も、小さくブツブツと独り言を呟いている。
「…餡の水分量が、皮に与える影響。これは、コーヒーの抽出時間と、客の滞在時間との相関で…」
蓮は、作業中に、不意に蒼太に声をかけてきた。
「おい、蒼太くん」
蓮は、蒼太の呼び名を、あっさりと定着させた。
「お前の嗅覚は、あのエスプレッソマシンの洗浄具合までわかるのか?」
「え…そこまでは…」
蒼太は、正直に答える。
「そうか。俺は、この鉄板から焦げ付きの匂いが完全に消えるまで、妥協できない。衛生管理。香月先生の言う『プロ意識』ってやつだ。今度、俺の新しいたい焼きの皮を試してくれ。コーヒーと餡のバランスを完全に変えてみた。今日、テラスで客が注文していた浅煎りブレンドに合わせて、皮をよりクリスピーに調整したんだ」
蓮は、まるで研究者同士のように、蒼太の「感覚」を頼りに、真剣な交流を求めてきた。蒼太は、言葉に詰まることなく、初めて自分から蓮に質問を返した。
「わ、わかった。どんな、匂いに変わるか、楽しみだ。今日の浅煎りブレンドは、酸味の中に、少し青い果実のような匂いがあったから、それに合うなら…」
その瞬間、蒼太は蓮と「言葉の壁」を越えた、最初の会話が成立したのを感じた。それは、社交的な会話ではなく、お互いの「才能」と「目標」を認め合った上での、真剣な「共闘」の始まりだった。
結も、フロアの片付けを終えて二人のそばにやってきた。彼女は、少し顔を曇らせていた。
「ねえ、二人とも、今日お疲れ様。私、今日一日で、正直ちょっと自信なくしちゃった。みんなすごい速さで動くし、メニューの名前も全然覚えられなくて…私、本当に広報なんてできるのかな…」
結は、疲れた表情を隠さずに言った。
蓮は、言葉少なではあったが、結の肩を軽く叩いた。
「結。君の笑顔は、接客の武器だ。俺たちにない才能だ。失敗は、今日で終わりじゃない。明日またやり直せばいい」




