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星陽高校バリスタ部  作者: やた
第17話 最適解のショコラトル

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5.シュガーハイ

 午後6時。テラスの閉門時間が近づき、ストーブの火も徐々に弱まり始めていた。外気はさらに冷え込み、指先が(かじか)むような鋭い寒さが人工芝を這うように覆う。部員たちは最後の片付けをしながら、数時間にわたる試験勉強の疲れで、一様に肩を落としていた。集中力が切れ、神経が磨り減った状態だ。


「うう……寒い……。脳みそが完全にガス欠。糖分を求めて細胞がデモを起こしてるよ……。もう公式の一文字も頭に入らない……」


 結がカウンターに突っ伏して、消え入りそうな声で唸っている。蒼太も、慣れない数学の難問と格闘し続けたせいで、顔色が少し青白く、脳内の処理速度が著しく低下しているのが見て取れた。


「……仕方ないわね。営業終了のボーナスタイムよ。私が一杯、ホットチョコレートを淹れてあげる」


 雫はそう言って、ピッチャーを手に取った。


(まあ、これは、私の『観測』への協力に対する、エネルギー供給という名の対価だけど)


 しかし、その時。あまりの寒さによる震えか、あるいは先ほどからの香月の言葉による思考の混乱か、彼女の指先がわずかに滑った。


「あ……」


 計量カップの目盛りを、夕闇が深まる中でわずかに読み違えた。さらに、攪拌の回転数も、彼女が絶対の黄金律だと信じていたマニュアルとは明らかに違う、不規則なリズムになってしまう。温度計を慌てて見れば、設定温度を2度もオーバーしていた。タンパク質が凝固し始める限界点に近い。


「……失敗ね。乳化が不完全だわ。オーバーヒートによる品質の劣化が生じている。理論上の失敗作だわ」


 雫は、自分のミスに愕然とした。完璧主義の彼女にとって、これはあり得ない失態、数式の単純な計算間違いにも等しい屈辱だった。マニュアルからは逸脱し、理論値からも外れた、バランスの悪い一杯。けれど。


(……捨てて、淹れ直すべき? ……いいえ。時間はもうない。みんな、今この瞬間に熱量を、即時的なエネルギーを求めている。理論の正しさよりも、救済が必要なはずよ)


 雫は、香月の言葉を思い出した。システムの外部ではなく、内部にいる自分。完璧な記述よりも、必要なのは「作用」すること。彼女は、あえてその「失敗作」をカップに注ぎ、トレイに乗せた。


「……不完全な試作品だけど。毒ではないわ。とりあえず、これで緊急のエネルギー補填をしなさい。品質へのクレームは受け付けないわよ」


 雫は、真琴、蒼太、結、そして少し離れたところで片付けをしていた蓮と凛にも、その一杯を配った。みんな、疲れ果てた顔で、魔法の薬を受け取るようにカップを受け取る。


「わあ……! 雫先輩、ありがとうございます! ……ふー、ふー。……あつっ、でもこの熱さが最高! 脳まで熱が届く感じ! 美味しい!」


「……うん。すごく、甘い。……なんだか、冷え切った脳の回路が、ゆっくり溶けていくみたいです……。生き返る気がします、本当に」


 結と蒼太が、顔を見合わせて、今日一番の自然な微笑みを交わす。その笑顔には、先ほどまでの「観察対象」としての歪みはなかった。


 真琴も、カップから立ち上る湯気を顔いっぱいに浴びて、「あー、幸せ……。この甘さなら、あと一章分は暗記できそう」と呟いた。


 凛も、蓮も、それぞれの場所で、その熱い液体を一口飲み、小さく息をついた。その顔からは、先ほどまでの刺々しい緊張感や嫉妬が、冬の夜霧が朝日を浴びて晴れるように消えていた。ただ、今この瞬間の温かさに身を委ねている。


 雫は、自分の分の一杯を手に取り、恐る恐る口をつけた。


(……甘すぎるわ。マニュアルの設計限界値を大きく超えている。……乳化も甘い。舌に残る微かなざらつき……。データ上は、明らかに落第点ね。F判定よ)


 けれど、その過剰なまでの甘さは、不思議なほどに彼女の体に染み渡った。温度計が示した「設定ミス」の余剰な熱さは、かじかんだ指先を癒やすには、この上なくちょうどいい、この瞬間の「最適解」だった。


「雫。これ、今までで一番おいしいよ。なんか、いつもより『雫の体温』がする気がする。計算じゃない味がするよ」


 真琴が、雫の顔を真っ直ぐに覗き込んで、揶揄うように、けれど優しく言った。


「……真琴、君の味覚センサーが疲労で狂っているんじゃない? これはマニュアル通りの一杯じゃないわよ。記述の誤りを含んだ欠陥品だわ。再現性のない、ただのノイズよ」


「マニュアルなんてどうでもいいの。雫が、私たちの様子を見て、慌てて淹れてくれたっていうのが、一番の隠し味なんだってば。……ねえ、顔、真っ赤だよ? 温度計、自分に使ってみる? 38度くらいありそうだけど」


「……それは、ホットチョコレートによる末梢血管の拡張作用と、糖分の急激な摂取に伴う代謝亢進の影響よ! 生理現象として当然の帰結だわ。熱暴走ではないわ!」


 雫は強く否定したが、心臓の鼓動が、試験勉強のプレッシャーとは全く別のリズムで、激しく速まっていることは認めざるを得なかった。甘すぎる糖分が血流に乗り、脳をわずかに高揚させる。いわゆる「シュガー・ハイ」の状態だ。


 でも、それだけじゃない。不完全な一杯が、完璧な理論よりも誰かを救い、温めているという、美しき矛盾。それが、雫の心の中に、計算不能な喜びのパルスを発生させていた。

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