4.欠損値の指摘
「お疲れ様、みんな。限定営業初日、順調そうね。試験勉強の進捗はどう? 捗っている?」
顧問の香月が、採点済みの数学のプリントを抱えてテラスに現れた。彼女が歩くたびに、知的な緊張感が波紋のように広がる。
クールな彼女が登場すると、場にピンとした緊張感が走るが、同時にどこか安心感が漂う。彼女自身が、このテラスという複雑な系の「調停者」であり、不動の原点であるかのように。
「香月先生。先生、少しお時間よろしいでしょうか。数学的な、というよりは認識論的な相談です」
「ええ、望月。どうしたの? またマシンの圧力が外気温によって不規則な変動を見せた? それともカカオの産地による油脂分の比率計算に重大な不備が見つかった?」
「いえ、そうではなくて……。数学的な、あるいは哲学的な、解のない問いについてです。……なぜ、物理的に完璧なレシピが、必ずしも最高の結果――つまり顧客満足度の最大化を導かないのでしょうか」
雫は、自分が今日一日中抱いていた「味と感情の相関性」についての矛盾を、香月に打ち明けた。完璧な乳化、完璧な温度管理、それなのに自分の淹れた一杯が、蒼太の「不完全な一杯」に幸福感で負けていると感じる理由。それは彼女が信じてきた論理の正当性を根底から揺さぶるものだった。
香月は、雫が書いた「人間関係相関図(という名の多次元ベクトル図)」を興味深げに眺め、ふっと口角を上げた。
「望月。あなたは非常に優秀な分析官ね。データの収集能力も、それを構造化する力も一級品。でも、この美しい図には、致命的な『欠損値』がある。そして、それが全体の計算を狂わせている」
「欠損値……。データの不足でしょうか? 観測回数が足りない? それとも、サンプリングの方法が偏っている?」
「ええ。あなた自身の変数よ」
香月は、雫のノートの余白、誰の名前も書かれていない空白の座標を指差した。
「あなたは常に『観測者』として、システムの外部、つまり絶対零度の場所から世界を見ようとしている。でも、このテラスという座標において、あなた自身が一つの確かな構成要素なのよ。観測者が事象に干渉し、事象が観測者の温度を変える。それが量子力学的であり、そして……何より、人間らしいということよ。あなたは系の一部であって、傍観者ではない」
「私が……、この系に干渉している?」
「そう。あなたの淹れるコーヒーが、今この瞬間の真琴の集中力を支え、あなたの教える数学が、日向の不安を和らげている。彼らはその『相互作用(やり取り)』そのものを味わっているの。あなたの数式に足りなかった変数は、きっとあなた自身の『関与』そのものじゃないかしら? 数値化できない、あなたの体温よ」
雫は言葉を失った。数式は、世界を記述するための、極めて限定的な、しかし美しい道具。けれど、数式そのものが世界ではない。香月の言葉は、雫が堅牢に築き上げてきた「理論の城」の壁に、冬の隙間風のような、けれど不思議と心地よい、生命の熱を感じさせる風を吹き込ませた。
「……不確定性原理、というわけですね。私が存在するだけで、結果は変わってしまう。ならば、完全な客観など存在しない……」
「そうね。計算し尽くせないからこそ、最適解は一瞬ごとに、その場の空気に応じて更新される。固定された解を求めるのではなく、揺らぎを楽しみなさい。……望月、あなたなりの『今、この瞬間の最適解』を、マニュアルを一度閉じて探してみなさい。それはきっと、ノートの外にある」
香月はそう言って雫の肩を軽く叩き、軽やかな足取りで職員室へと戻っていった。雫はその手の感触を、いつまでも肩の上に感じていた。




