3.レンズの曇り
夕刻が近づき、テラスに差し込む光はオレンジ色から群青色へとグラデーションを描き始めていた。気温はさらに下がり、ストーブの周りだけが島のように温かい。
雫は参考書を広げながら、限定営業の静かなカウンターで「人間観察」を継続していた。これは彼女にとって、データの欠落を埋めるための重要なフィールドワークだった。テラスは、ある種の社会心理学的な実験場なのだ。
斜め向かいのテーブルでは、結が蒼太に世界史を教えている。
「いい? 蒼太くん、ここは『パンとサーカス』! ローマの人たちはね、お腹が空いたらパンを食べて、サーカスを見に行く! ほら、楽しそうでしょ? そうやって覚えれば、五賢帝の順番も自然と……」
「あはは……。結さんの覚え方は、いつも主観的だね。でも、なんだかその方が当時の人たちの光景が浮かぶ気がするよ。ただの年号が、生きた時間に変わるっていうか」
楽しそうに笑い合う二人。その光景を、少し離れた場所から羽純凛が、単語帳を握りしめたまま、微動だにせず視界の端に捉えていた。彼女の周りだけ、局所的に気温が数度下がっているのではないかと疑いたくなるほどの緊張感が漂っている。その瞳は、恋心という名の解のない計算式を無理やり解こうとしているかのようだった。
さらに離れた柱の陰では、たい焼き機が休止中で手持ち無沙汰な潮崎蓮が、時折凛の方を気遣わしげに(あるいは、彼女の視線の先にあるものに苛立たしげに)一瞥している。
「……閉鎖系におけるエントロピーの増大ね。外部からのエネルギー供給がないまま、内部の感情だけが飽和して、カオスに向かっているわ。このままだと系の安定性が失われるわね」
雫はノートの隅にそう書き込んだ。四人の視線が、目に見えない光ファイバーのようにテラスを交差している。それは美しく、そして極めて不効率な、感情のベクトル図だった。誰もが最短距離を進もうとせず、あえて複雑な放物線を描いて相手の出方を伺っている。
ふと、背後でスチーマーから漏れた熱い湯気が雫の顔を掠めた。
「っ……」
雫の眼鏡が真っ白に曇る。拭おうとして指を動かしたが、そのまま止まった。視界が完全に遮られたことで、逆に周囲の「音」が鮮明に立ち上がってくる。ストーブの中で爆ぜる薪の微かな爆ぜ音。生徒たちがページをめくる摩擦音。そして、結の天真爛漫な笑い声に混じって聞こえる、蒼太の少しだけ上擦った、弾んだ声。
レンズが曇ったままでも、そこにある「温度」は感じられた。それは、彼女がどれだけ高性能な非接触型赤外線温度計を持ち出しても、決して数値化できない、冬の夕暮れ特有の、切なくて温かい何かだった。それは数式で表せば「不連続な変化」であり、しかし確かにそこにある真実だった。記述できないものこそが、この場の中心にある。
「雫? 眼鏡、真っ白に曇ってるわよ。……一点を見つめて、何考えてるの? 瞑想でもしてる?」
真琴の声に、雫は我に返った。慌てて眼鏡を外し、柔らかなマイクロファイバーのクロスで丁寧に拭き取る。視界がクリアになると同時に、先ほどの「音だけの世界」の余韻が霧散していく。
「……別に。ただ、この閉鎖環境における『ノイズ』の正体について考察していただけよ。統計学的な異常値が、なぜこれほどまでに場全体の重みを支配するのか……」
「ふーん。そのノイズ、雫自身の心拍数も密かに上げてない? 私の目には、雫が一番そのノイズを『受信』して、影響を受けているように見えるけど」
「……! 真琴、根拠のない推論はやめて。私のバイタルデータは常に正常範囲内よ。血圧も脈拍も、ホメオスタシスの範囲で完璧に制御されているわ。そうでなければバリスタとしての品質管理は務まらない」
雫は早口で言い切ったが、拭き終えたばかりのレンズの奥で、自分の視線がほんの一瞬、蒼太たちの座る方向へ――あるいは、その周囲に漂う「空気」へ――泳いだことを、自分自身だけは知っていた。




