2.計算の狂い
営業開始から一時間が経過した頃、限定メニューの注文が入り始めた。
雫は、自分が幾度ものシミュレーションを経て、物理学と化学の知見を総動員して構築した「絶対的マニュアル」に従い、一杯のホットチョコレートを淹れた。カカオの濃厚な香りが正確な温度で立ち上り、表面には均一な厚みを持つ鏡のような滑らかな光沢がある。データ上、これ以上ない完璧な一杯だ。
しかし、その一杯を受け取った女子生徒の反応は、雫の期待したものとは少し違っていた。
「わあ、すごい綺麗。……でも、ちょっと熱いかな?」
彼女はふーふーと息を吹きかけ、少しずつ、慎重に口に運んでいる。その表情は「美味しい」という純粋な喜びより、あまりに完璧に「整いすぎている」ことに圧倒されているようだった。それは雫にとって、完璧な証明を記述したのに「エレガントさに欠ける」と配点を削られたかのような、奇妙な敗北感を伴う反応だった。
一方で、休憩に入った蒼太が、結のために適当に――雫の目から見れば、温度計もタイマーも使わず、ただその場の感覚で――淹れたホットチョコレート。
「結さん、これ……。ちょっと甘すぎたかもしれないけど、糖分補給にいいかなって。疲れにはチョコがいいって、どこかで聞いたから」
「わあ! 蒼太くん、ありがとう! うん、ちょうどいいよ! 疲れた頭にチョコの甘さが染みる~、これこれ、この背徳的な甘さを待ってたの!」
結は満面の笑みでカップを両手で包み込み、幸せそうに目を細めている。その周囲だけ、まるで春の陽だまりがあるかのような錯覚を覚える。雫はそれを、カウンターの陰からじっと観察していた。
(……論理的矛盾が生じているわ。不確定要素の塊であり、再現性も低いあの一杯が、なぜこれほどの高い幸福満足度を叩き出しているの?)
雫の計算では、飲み頃の温度は摂氏65度、糖度は一般的な日本人の味覚が統計的に最も心地よく感じる範囲内に収めているはずだった。それなのに、蒼太が感覚だけで作った、微かに泡立ちが不規則で糖度過多な一杯の方が、被験者の満足度が高い。
「真琴。蒼太くんが淹れたあの一杯、レシピからの乖離が激しいはずなのに、なぜ結ちゃんはあんなに高い幸福値を示しているの? 糖度の過剰摂取は、むしろ味覚の麻痺を招き、長期的には不快指数を上げるはずよ」
「雫、それを数値で測ろうとするのが無理なんだって。結ちゃんは、蒼太くんが自分のために、自分の疲れ具合を見ながら淹れてくれたっていう『熱量』を飲んでるんだから。スペックの問題じゃないの、コンテクストの問題なの」
「……熱量? 比熱容量の話をしているの? 物理現象として、投入された熱エネルギーと心理的満足感に正の線形な相関関係があるという根拠はどこにあるの? それはエネルギー保存の法則を無視しているわ」
「違うわよ、もう! 『想い』とか、そういう非科学的で、でも人間にとっては一番大事なやつ! 数式には書けない空白の部分を読みなさいよ、この理系女子!」
真琴はペンで雫の額を軽く小突いた。雫は眼鏡を直し、納得がいかないというように唇を尖らせた。想い。そんな定量化できない、環境によって揺らぐ変数が、なぜ物質の味という化学反応にまで影響を与えるのか。彼女の脳内のシミュレーターは、激しいエラー音を立てていた。それは、宇宙の法則を疑う物理学者の苦悩に似ていた。




