1.冬の係数
12月上旬。桜川市の空は、まるで磨き上げた冷たい硝子を嵌め込んだように、高く、どこまでも透き通っていた。吸い込む空気は肺の奥を鋭く突き、吐き出す息は瞬く間に白く霧散していく。
私立星陽高等学校の本館中央に位置する中庭「木漏れ日テラス」。初冬の低い陽光が幕式天井を透過し、人工芝の上に淡い幾何学模様を描き出している。例年であれば期末試験期間中は完全休業となるバリスタ部だが、今年は新部長の沢村陸と副部長の泉真琴の提案により、「試験的限定営業」が実施されていた。これは部員の学力維持と、試験勉強で疲弊する生徒への癒やしを両立させるための試みだ。
「外気温摂氏8度。湿度35パーセント。……熱伝導率の低下を考慮すると、予熱時間は通常比でプラス120秒といったところね。金属の熱容量を無視した抽出は、誤差の蓄積を招くわ」
望月雫は、カウンターの中で独り言を呟きながら、金属製のスチームピッチャーを手に取った。彼女の眼鏡の奥の瞳は、まるで精密な観測機器のように鋭く、落ち着いている。限定営業のメニューは、集中力を高めるための深煎りブレンドコーヒーと、この冬の新メニューである「ホットチョコレート」の二種類のみ。
雫にとって、このホットチョコレート――通称「ショコラトル」は、単なる甘い飲料ではない。それは、カカオの油脂分とミルクのタンパク質という、本来は反発し合う性質を持つ物質を、熱と攪拌の力によって完璧に融和させる「物理的な挑戦」だった。少しでも温度が低ければ成分は分離し、舌の上に不快なざらつきを残す。逆に高すぎればカカオの繊細な揮発性成分が損なわれ、香りは死ぬ。彼女は自分自身に課した厳格な基準をクリアするため、一滴の無駄もない所作で機材を操っていた。
「雫、またぶつぶつ言ってる。試験勉強のしすぎで脳内の数式が漏れ出してるんじゃない? 物理の教科書と会話してるみたいだよ」
隣で帳簿を整理していた副部長、泉真琴が呆れたように笑いかけた。雫とは2年生同士、気心の知れた仲だ。真琴は、雫が集中しすぎると周囲のノイズを完全に遮断し、自身の内部理論に沈み込んでしまうことを知っているため、あえて軽めのトーンで現実世界へと引き戻す。
「心外ね、真琴。私はただ、この系における最適解を導き出そうとしているだけ。ホットチョコレートはデリケートなの。乳化の状態がコンマ数パーセント変わるだけで、舌触りという名の官能評価に劇的な誤差が生じるわ。それは、数学で言えば定義を間違えたまま証明を進めるようなもの。あるいは、一変数を見落として設計された橋が崩落するようなものね。耐えがたい屈辱だわ」
「はいはい。でも、今日から限定営業なんだから、あんまり根を詰めないで。ほら、お客さんも『勉強モード』の生徒ばっかりだし、そんなに厳しい審美眼……っていうか舌を持った人はいないよ」
テラスのテーブルには、数人の生徒が参考書を広げ、ストーブの火に暖まりながら静かにペンを走らせている。バリスタ部の面々も、シフトの合間はカウンターの隅で試験勉強に励むのが、この「限定営業」のルールだった。教室よりも天井が高く、かつ適度な緊張感とコーヒーの香りが漂うこの場所は、追い込みの時期の彼らにとって貴重なサンクチュアリとなっていた。
「……蒼太くん。それ、数学の公式が間違ってるわよ。その事象には加法定理は適用できない。もっと基本的な変数の置き換えが必要ね。座標軸を固定したまま計算しようとするから、解が虚数域に逃げていくのよ」
雫は、カウンターの端で眉間に深く皺を寄せていた一年生の日向蒼太に声をかけた。蒼太はびくりと肩を揺らし、恐縮したように眼鏡を直す。彼は数学が苦手なわけではないが、一度考え込むと独自の迷路にはまり込み、論理の迷子になる癖がある。
「あ、雫先輩……。すみません、どうもここの展開が納得できなくて……。代入した後のグラフの形が、どうしても僕の直感に反して不自然に見えるんです」
「納得じゃなくて、論理で追いなさい。不自然に見えるのは、君が数式に『期待』や『直感』という不確かな主観を持ち込んでいるからよ。数式は裏切らないけれど、主観は常に観測を歪めるわ。……貸して、赤ペン」
雫は流れるような動作で蒼太のノートに数式を書き込み、鮮やかに解説を始めた。彼女にとって、数学の証明も、コーヒーの抽出も、ホットチョコレートの攪拌も、すべては宇宙を支配する一つの大きな「法則性」の中にあった。




