3.鉄板の規律
「遅い! 生地を流す速度がコンマ5秒遅れた! そのせいで、一番大事な角の部分がすでに焦げ始めてるぞ!」
蓮の怒声が、テラスの片隅に鋭く響き渡る。凛は、額に滲む汗を拭うことさえ許されず、重厚で熱を帯びた鉄製のたい焼き機と格闘していた。
テラスの営業中ということもあり、注文は途切れることなく入ってくる。蓮は自分の分を、呼吸をするように完璧に焼き上げながら、隣の凛の作業を猛禽類のような鋭い眼差しで監視し、容赦のない、そして的確な修正指示を飛ばし続けていた。
「うっ……。この鉄板、想像以上に重すぎですわ……。手首が折れそう……」
「文句を言ってる暇があったら、鉄板の表面を見ろ! 今、小豆の水分が飛んで、香りが『豆』から『餡』に変わっただろうが。その瞬間に生地を被せなきゃ、皮と中身の一体感が死ぬんだよ」
凛は必死に食らいついた。彼女が今まで絶対の正解だと信じてきた「精密な計量」や「理論値」だけでは、この生き物のように、一刻一秒と変化し続ける鉄板の上では通用しなかった。
外気の温度によって生地の伸び方が微妙に変わり、テラスを吹き抜ける風の向き一つで、ガス火の熱の伝わり方が左右に揺らぐ。蓮はそれらを、脳で考えるよりも早く、皮膚の感覚で捉え、無意識のうちに姿勢を修正していた。
「……理論は、あくまで『静止した状態』の平均値でしかない。現実は、もっと流動的で……残酷ですわ」
「気づくのが遅せえんだよ。鉄板の上にあるのは、数式じゃねえ。今、この瞬間に起きている『化学反応』そのものだ。それに乗り遅れるな」
凛は一度、熱気のせいで朦朧としそうになる意識を繋ぎ止め、目を閉じて深く、熱い呼吸を繰り返した。そして、ノートに必死に書き込んだ数字を、あえて脳内から一度すべて消去した。
五感を、極限まで研ぎ澄ます。
生地が熱い鉄板に触れた時に立てる、弾けるような「チリチリ」という旋律。立ち上る小麦の香ばしさが、甘い香りに変化する瞬間の分岐点。重い蓋を返す時に、手首に伝わってくる、微かな、だが確実な生地の膨らみの抵抗感。
凛の動きから、次第に力みが取れ、無駄を削ぎ落とした「所作」へと変わっていく。
蓮は横目でそれを見て、内心で舌を巻いていた。このプライドの高いお嬢様は、飲み込みが異常に早い。いや、それ以上に、一度「これだ」と決めた対象に没頭した時の集中力が、自分ですら恐怖を覚えるほど深く、暗い。
「……。ふん、少しはマシな動きになってきたな」
「……まだですわ。まだ、あなたの所作に流れるような『必然性』が足りません」
もはや、二人の間に言葉による解説は必要なかった。
ただ、たい焼き機が閉まる「ガチャン」という重厚な音と、ガス火が立てる微かな「シュン、シュン」という一定のリズムが、メトロノームのように繰り返される。
それは、周囲の喧騒――生徒たちの笑い声やスプーンの触れ合う音――から完全に切り離された、二人だけの独特な静寂の空間だった。互いの息遣いを感じ取り、互いの動きを鏡合わせのように意識する。完璧を求める二人の魂が、灼熱の鉄板の上で、確かに共鳴を始めていた。




