6.厳しさと愛の教え。橘部長の過去
蒼太がテラスの隅で俯き、逃避の衝動に駆られた、まさにそのとき。背後から、冷たい、しかし聞き慣れた声が響いた。
「日向。その表情は、もう逃げ出したいと言っているわね」
顧問の香月だった。彼女は、鋭い目つきで蒼太を真正面から見据えた。
「営業のスピードとプロ意識に、怖気づいたのでしょう。それでいい。それが、この部活の現実よ。あなたのような内気な生徒は、この部活には不釣り合いだと、私もまだ思っているわ」
香月は、容赦なく蒼太の最も痛い部分を突く。
蒼太は何も言えなかった。その通りだ。否定の言葉は、一つも出てこない。
「でも、一つ、誤解があるなら正しておきましょう」
香月は、静かに、しかし深い響きを持つ声で続けた。
「橘楓だって、最初から完璧だったわけじゃない」
蒼太は、その言葉に目を見開いた。テラス全体を包み込むような温かい笑顔と包容力を持った楓が、自分と同じようにコミュニケーションに問題を抱えていた?信じられない事実だった。
香月は、当時のことを思い出すかのように、遠く、テラスの一点を見つめた。
「彼女は、あなたが昨日感じたように、非常に繊細な味覚を持っていた。私が出すどんな複雑なブレンドも、正確に再現できた。抽出の精度は、当時から高かった。しかし、お客の顔を見て手が震え、お湯をドリッパーに注ぐことさえ、緊張で失敗しかけた。接客は常に涙目、言葉は『はい』と『いいえ』だけ。まさに、あなたと瓜二つだった」
「それが今では、部をまとめる指揮官よ」
香月は、蒼太に視線を戻した。
「なぜ、彼女が変われたか?それは、彼女が『居場所』ではなく、『舞台』を求めたからよ。誰かに甘えるのではなく、この部活でお客様に価値を提供するプロフェッショナルになるという覚悟を決めたから」
香月は、テラスを見渡した。
「バリスタ部は、星陽高校の部活で唯一、お客様からお金をいただく場所よ。私たちは、彼らに『そのお金と時間に見合う価値』を提供しなければならない。これは、単なるお遊びの部活ではない。プロ意識が、このテラスの生命線なの」
「あなたに必要なのは、逃避ではなく、『覚悟』よ」
香月の言葉は、まるで氷のように冷たかったが、その底には、楓を部長までに育て上げた指導者としての情熱と、部活への深い愛が感じられた。蒼太が感じた冷徹さの裏にある、意外なほどの面倒見の良さだった。
「日向。あなたは、言葉の才能はないかもしれない。でも、感覚の才能はある。その才能を、言葉の壁を乗り越えるための武器として、磨き上げる覚悟があるなら、ここで学びなさい。もし、逃げたいなら、今すぐ帰っても構わない。だが、一度逃げたら、もう二度とこのテラスの扉は開かない」
香月は、それだけ言うと、テラスの奥の席に戻っていった。
蒼太は、両手を固く握りしめた。楓の過去、香月の厳しくも真摯な言葉、そして、この部活の「プロ意識」。それらは、彼の逃げ道に残された全ての言い訳を打ち砕いた。
(橘部長だって、僕と同じだったんだ。言葉が苦手で、接客が怖かった。でも、彼女は、この場所で変わった。逃げずに、自分の才能を活かす『舞台』として、このテラスを選んだんだ)
蒼太の心の中で、再び決意の炎が燃え上がる。自分の弱点に目を瞑るのではなく、それを乗り越えるための闘いが、ここから始まるのだと、彼は静かに受け入れた。




