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事の発端

「……ねえ、果歩」

「? なあに? 美桜ちゃん」


 ある日の二時間目が終わった頃、私の親友、美桜ちゃんが話しかけてきた。

 それ自体はいつものことなんだけれど、何だか今日は様子がちょっと違った。一言目から声が上擦っていたし、顔が少し強張っている。緊張している? でもなんで?


「あの、さ……ちょっと付き合って欲しい……んだけど、いいかな?」

「? うん、いいよ」

「! 良かったありがとう! じゃあ、一緒にトイレに行こ!」

「……うん」


 私が返事をすると、急に美桜ちゃんがパアッと明るい顔になって声が弾みだした。

 何の用事か頼みごとか分かんないけれど、断るわけもない。いつも助けてもらったり慰めてくれたりする美桜ちゃんが困っているなら、いつもの恩返しに力になりたいと思う。

 返事をしたのと同時に手を掴まれた私は、そのまま美桜ちゃんの腕に引かれるがまま、教室を出た。

 廊下を通り過ぎ、とうとうトイレに一緒に入る。中にはまだ、私達の他に誰もいない。


「……ちょっとこっち来て」

「ん?」


 なのに美桜ちゃんは、私を連れて個室の一室に入った。狭い空間に二人っきりで押しかけて、どうするんだろう? と思ってたら美桜ちゃんが扉を閉めて鍵まで掛けた。


「美桜ちゃん?」

「しー……静かにしてて、頼むから」

「???」


 美桜ちゃんから、小声で注意される。

 何だろう? そんなに周りに聞こえちゃまずい話なのかな? 分からないけれど、それが美桜ちゃんの頼みならば、こくんと声も出さずに頷く。


「ん……良い子だね」


 美桜ちゃんが笑って、声を潜ませながら褒めてくれた。期待に応えられたようで、私もちょっぴり嬉しくなる。


「じゃあ、そのまま、ちょっとここに座ろうか……」

「? う……ん」


 そう言って美桜ちゃんは、洋式トイレの蓋を開ける。

 別に私はトイレをしたいわけじゃないのに座るの? って戸惑ってしまう。でも、それが美桜ちゃんの指示なら、言う通りに座ろうとする。

 一瞬、下着を下ろしたほうがいいのかどうか迷ったけれど、別にその必要も無いかと、スカートを捲っただけでそのまま便器に触れる。

 パンツを履いたままトイレに座るなんて、何だか変な感じがする。


「……美桜ちゃん?」

「! ああ、うん……」


 トイレに座った私をじっと見下ろしていた美桜ちゃんは、声をかけると慌てて返事をした。

 どうしたんだろう? 今日の美桜ちゃん。いつもよりも変な感じだ。いつも変なところはあったりしたけれど、今日は何か特に変だ。

 そんなに言いづらいことなのかな? 周りにも絶対に聞かれたり知られたくない程の。つまりは、美桜ちゃんの秘密か、隠し事か、相談事か。……でも相談事なら、メールか何かで送ればいいのに。


「……ああのさっ、果歩!」

「? どうしたの……って……」


 つい数分前と似たようなやり取りをまたする。

 だけど今度は、さっきのよりも美桜の様子がおかしかった。緊張しきっていて、頑張って声は抑えているけれど切羽詰まっていて、更には私の両肩を抑えつけもしてきて、


「……美桜、ちゃん?」

「…………」


 私の親友が、強張った顔で真剣な目で私を見つめてくる。

 なんで? 何があったの? 美桜ちゃん。怖いよ……。

 いつもの様子じゃない、それどころか、ただならぬ雰囲気を醸し出している私の親友に、なんだかこっちまで心臓がバクバクしてくる。不安と疑問と恐怖で、わけが分からなくなって、頭が痛くなって、耳鳴りまでしてきて、口の中で歯を食いしばる。

 でも、もしかしたら、目の前で固まっている親友も、同じ思いをしているのかな? その心の奥底に何があるのか、私にはまだ分からないけれど。


「……果歩」

「……ん?」


 意を決したように、美桜ちゃんが口を開く。


「……果歩は、その……あたしのこと、好き?」

「えっ……う、うん。……好き、だよ?」


 何かと思えば、そんな当たり前のことを訊いてきた。


「こんな……あたしでも?」


 そういう私の親友は、より一層不安げな顔をしていた。


「……うん。……別に、嫌ったりなんてしないよ。美桜ちゃん。親友って、あの時言ってくれたの、美桜ちゃんだし、私だって、ちゃんと応えたじゃん……」


 何もかもが未だに分からないままだけど、急にそんなことを疑ってくる美桜ちゃんが心配になる。心配で堪らなくなって、初めて親友だと認め合ったあの時のことを持ち出してまでどうにかしようとしてしまう。


「……うん。……そうだよね。親友……だもんね」

「? ……美桜ちゃん?」


 なんで? どうしてそこで落ち込んだりするの? 私、何か美桜ちゃんをがっかりさせるようなこと、したの? そんなっ……ただ、私はっ、美桜ちゃんといつもみたいに仲良くしていたいだけなのにっ。


「……じゃあ、さ。果歩……」

「なっ、なあに……?」


 顔を上げて、何かを覚悟した私の親友が、怖い顔をしたまま私に向き直る。


「今から、あたしがすること……何も言わずに、受け入れてくれる……かな」

「? ……う、うん。いい……よ?」


 いったい、何をしでかすつもりなんだろう。私にはさっぱり分からないし、はっきりとは答えようがないことだったけれど、ここで私が頷かなかったら、美桜の事を何も知らないまま、何かを隠されたまま過ごすことになる気がした。だから、私は、美桜の勢いに流されるままに、頷いた。


「そう……良かった。じゃあ……するね?」


 って、目元を緩ませた美桜ちゃんは、次の瞬間、徐々に少しずつ、顔を更に私に近づけていった。

 えっ? ちょっ……ちょっと! 美桜、ちゃん……?

 なんて、私の頭がパニックになって、もはや言葉を失ってしまっている間にも、容赦なく美桜ちゃんは、もっと、もっと、留まることなく顔を近づけてきた。

 頭が真っ白になって、ついに私の視界に美桜ちゃんの瞳と眉しか映らなくなった頃、美桜ちゃんはそっと目を閉じてまた更に顔を近づけてくる。


「~っ」


 これから、自分が、何をされるのか。

 ようやく悟った頃には、もう何もかもが遅すぎて、引き返す事が出来なくて。私には、どうすることも、心の準備すらできないまま、無理やりに、乱暴でも覚悟を決めて、目をぎゅっと瞑って受け入れることしか、できなかった。


 いよいよ次の瞬間、私の身に降り注がれたのは、注射よりも確かな、柔らかく、乾いた、唇を押し付けられる感触。


 これが、いわゆる、キス、というものだろうか。

 漫画とかアニメとかで、時には憧れを生むような、感動的な雰囲気と共にされる、恋人同士の愛情表現。

 だけど、今の私達は、親友であっても恋人ではない。

 その資格すら本来無いように思えば、きっと傍から見たところで、とてもそういう雰囲気とは程遠いだろう。その何よりの証拠に、私の顔は恐怖と緊張に支配されたまま歪みきっている。

 それでも、親友からの一方的な、お互いに初めてになるはずの行為は、時が止まってしまったかのようにしばらく続いた。そこに好意と呼べるものは、やっぱり親友からの一方的にしかない。


「…………」

「んっ……」


 であればこそ、その初めての感覚を味わっていられているのも、恐らく親友しかいない。少なくとも私は、とてもそんな余裕はない。五感全てが失われたような状態のまま、呆然と終わりの見えない時を過ごすことしかできないでいた。


「……ほ……果歩? 大丈夫?」


 肩を揺さぶられながら段々と聞こえてきたその声に、はっと気がついてみれば、私の目の前には、心配そうな顔で私を見つめる美桜ちゃんがいた。


「ごめん。本当にごめんっ。いきなり、あんなことして……っ。……こ、こわっ……かっ……た?」


 なんでだろう? なんで、美桜ちゃんは、辛そうに、申し訳なさそうに、私に謝っているんだろう?


「だ……だいじょうぶ、だよ? うん。なにも、こわくは、なかった……」


 何があったのかは分からないけれど、とにかく、私は、そんなふうな美桜ちゃんは望んでない。だから私は、よく分からないままでもそう声をかけた。


「本当に? なら、良いんだけど……」


 とは言ってくれたものの、やっぱり心無い言葉では、美桜ちゃんを安心させることは出来なかった。すぐに押し黙って、何も言わなくなってしまう。

 私も、これ以上何を返したらいいのか分からず、同じように沈黙してしまう。


「…………」

「…………」


 気まずい。これ以上ないくらい気まずい空気が、私達の間を包む。

 今まで、お互いに無言の時を過ごした事は、何度もあった。その時でも、自分達の好きなように、気ままで穏やかな時間を過ごすのが普通だった。

 いつでも話しかけていいし、話しかけられてもいい。けれど、無理して話題を探さなくていいし、自由に物思いに耽ったっていい。

 美桜ちゃんもそれが分かってて、無闇な干渉はしないで思うがままに過ごす。

 それが、私達の中でいつものように過ごしていた、居心地の良い仲の付き合いだった。


 だというのに、今は、悲しいほどに、面影が何処にもない。

 いつになったら話しかけていいのか、話しかけてくれるのか。でも、何の話題をするべきなのか、あるいは反省して気に病むべきなのか。

 多分、美桜ちゃんもそれを感じてて、無闇な言葉が掛けられずにいる。

 それが、私達の中でいつもと全然違ってしまった、居心地の悪い仲の付き合いだった。


 キーンコーンカーンコーン……。

 気がつけば、予鈴のチャイムが鳴り響く時間になってしまった。

 とにもかくにも、今すぐこの個室から出て教室に戻らないとまずい状況になった。

 その緊急事態に、先に動いたのは美桜ちゃんだった。


「っ! とにかく、さっきのことはごめん!

嫌だったら、もうしないから! 絶対に! だから、早く教室に戻ろ?」

「う、うん。わ、分かった……」


 切迫した状況に押されるがままに生返事を返した時、美桜ちゃんは私の手を無理やり掴んで引っ張り、思いっきり扉を開けようとした。

 が、開かなかった。当然だった。鍵を掛けてしまっていたのだから。

 密室を作り出した張本人が、その事実に数秒遅れて気がつき、無事にロックを外して私達は個室から飛び出した。

 不幸中の幸いといったところか、その時の女子トイレには他に誰もおらず、私達二人が一つの個室に閉じこもっていた事実を知る部外者はいなかった。

 その後何とか、担当の先生が教室に来る前に席へと舞い戻る事ができて、やがて先生も来て普段通りの授業が始まった頃、私は上の空でさっき遭ったことを思い返していた。


(私は、美桜ちゃんに、何をされていたんだっけ……)


 そうしてゆっくりと、数分前の記憶を手繰り寄せていけば、やがて避けては通れない決定的な出来事に辿り着く。


(キス……。そっか……。私、美桜ちゃんにキスされたんだ……)


 美桜ちゃんが、何故急に、私にそんなことをしてきたのか分からない。けれど、現にされた以上、美桜ちゃんにも何か理由があったのは確かだろう。


(キス……)


 改めて、その事実に向き合ってみる。

 確かに、漫画とかアニメとかで見たことはある。それ自体に驚いたり、見てはいけないものを見てしまった罪悪感みたいなのはあったけれど、決してそれ自体が嫌になったことは……そういう演出出ない限りあんまり無かった。

 ただ、やっぱり見たり読んたり妄想してただけなのと、実際に体験されるのは、やっぱり別なわけで。しかも、そんな衝撃的なオトナのコトをされたのは初めてだったし。


(キス……されたってことは、やっぱり、そういうことなのかなあ?)


 今度は、その事実から逆算して、真相を推理してみる。

 最初は、うまく周りと馴染めず独りでいた私に急に美桜ちゃんが話しかけてきてくれて、それが何回も続くうちに特に理由もわからないまま友達になって、私が悩んでたり落ち込んだりした時はいつだって元気づけてくれて……。

 確かに、そう考えてみれば、美桜ちゃんがなんで、何の取り柄もない私みたいなのを、こんなにも気にかけてくれたのかも、少しは納得できる気がする。


「大丈夫だよ! 果歩はそのままでも! だって可愛いもん!」


 昔から、よくそうやって美桜ちゃんに言ってもらったことを思い出す。


(可愛い、か……)


 そんなことはないと思うけど、美桜ちゃんが言うなら、そうなんだろう。

 そうやって、自分なりに美桜ちゃんの言葉を受け入れてきた。決して自分の可愛さに自惚れはしなかったし、出来なかったし、私からすると、普通は美桜ちゃんの方が、発育も良くて髪も肌も綺麗なんじゃないかと思うけれど。私自身は、中学2年生になっても未だに全然そんなことはないし。


(……それに)


 しかも、だからといって、肝心の私は、美桜ちゃんの気持ちに応えられる気がしない。

 もちろん、美桜ちゃんが私を大事に思ってくれているのは分かる。けれど、今の私は、考えれば考えるほど、美桜ちゃんの言葉に疑心暗鬼になってしまって、落ち込まずには居られなくなる。


(……性加害……)


 お母さんから何度も聞かされたその呪いのワードが頭を過ぎって、気持ち悪くなってきてしまうから。

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― 新着の感想 ―
空気感もシチュエーションもドストライクでした。
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