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『 16歳の冬に見た大人の世界 ―石田あゆみさんを偲んで』

作者: 小川敦人

『 16歳の冬に見た大人の世界 ―石田あゆみさんを偲んで』


今夕、ニュースを見ていると、歌手であり俳優でもあった石田あゆみさんが亡くなったという速報が流れた。享年76歳。甲状腺機能低下症だったという。あの歌声や演技を二度と見ることができないと思うと、胸が締め付けられる思いがした。


石田あゆみ。


この名前を聞くと、私の脳裏には16歳の冬の記憶が鮮明によみがえる。あの日、私は人生で初めて「芸能の世界」というものを垣間見ることになった。そしてそれは、少年だった私が大人の世界を知った瞬間でもあった。


-----突然舞い込んだ仕事


16歳の冬、どんなルートで話がきたか今となってはわからない。ただ、若くてある程度力仕事ができるという理由で話が来たのだと思う。当時の私は水泳部に所属していたが、冬はシーズンオフで練習も緩くなっていた時期だった。部活をサボっても問題ない状況だったので、舞い込んできた駿府会館でのアルバイトの話に飛びついた。

「石田あゆみのリサイタルがあるんだけど、照明の補助をやってみないか」

「駿府会館」---その会館は、建築界の巨匠・丹下健三の設計によるもので、当時の静岡を代表する文化施設だった。東京の代々木体育館に似た独特の曲線を持つコンクリート打ちっぱなしの建物は、今でも私の記憶に鮮明に残っている。高校生にとって、そのような場所で仕事ができるというのは、なんとなくかっこいいと思ったものだ。

私の仕事は単純だった。スポットライトを天井裏からステージにあてる照明スタッフの手元を支える仕事。具体的には、照明機材の配置転換や調整の際に器具を支えたり、ケーブルが絡まないようにしたりする補助的な作業だった。特別な技術はいらない。ただ、指示通りに動けばいいだけの単純作業だった。

しかし、初めて体験したスポットライトの熱さは半端なかった。天井裏の狭い空間に設置された照明機材からは想像以上の熱が放出され、冬であっても汗が噴き出すほどだった。水泳部で鍛えた体力が役に立ったとはいえ、時に息苦しさを感じることもあった。「芸能の世界は華やかだけど、裏方は本当に過酷なんだな」と、若い私は感じていた。


----- リハーサル


本番に向けて何回かリハーサルが行われた。照明スタッフの指示に従い、「ここを明るく」「あそこを暗く」という作業を繰り返す。プロの照明スタッフたちは、ステージのどこに石田さんが立つか、どの曲のどのタイミングでどんな光を当てるかを細かく計算していた。

その緻密さに、私は感心した。ライブやコンサートというのは、観客からは見えない場所で、こんなにも多くの人が関わり、細かい準備を重ねているのかと。舞台の華やかさの裏には、こうした地道な作業の積み重ねがあるのだと、初めて知った。

リハーサルの合間、石田さんはほとんど姿を見せなかった。たまにスタッフと打ち合わせをしている姿を遠くから見かけるだけだった。彼女は当時、デビューしたばかりの新人だったが、それでも私のような高校生アルバイトからすれば、雲の上の存在だった。


-----楽屋の扉が開いていた


リハーサルが続く中、休憩時間、私はトイレに行こうと廊下を歩いていた。その時だった。楽屋となっていた部屋のドアが少し開いていた。

特に覗き見るつもりはなかった。しかし、その隙間から、私は石田あゆみさんの姿を見てしまった。彼女は折り畳み椅子に座り、うつむいていた。

その瞬間、私は衝撃を受けた。信じられないほど痩せていたのだ。

16年間生きてきて、初めて見るような痩せ方だった。それは美しいとか健康的というレベルを超えて、病的とさえ感じられた。私は水泳部に所属していたこともあり、水着姿の女性を見る機会は少なからずあった。日々の練習で鍛えられた目には、健康的な体型とそうでないものの違いがわかる。しかし、石田さんの痩せ方は、まったく異なる次元のものだった。

華やかな舞台の上の彼女からは想像もつかない姿だった。その姿には、一種の暗さ、あるいは影のようなものを感じた。

楽屋のドアの隙間から見た一瞬の光景。それは少年だった私にとって、芸能の世界の厳しさ、あるいは人間の弱さを垣間見た瞬間だったのかもしれない。


-----変身


それから数時間後、本番がやってきた。開演の2時間前、会場は忙しく動くスタッフで溢れていた。私も持ち場について最終確認を行っていた。

そして開演。会場が暗くなり、ステージ中央にスポットライトが当たる。そこに現れた石田あゆみさんは、楽屋で見た姿からは想像もつかないほど、まったく別人のように輝いていた。

華やか。それ以外の言葉が見つからない。

細身ではあったが、ステージ上では、それが彼女の魅力として昇華されていた。痩せすぎという印象は消え、代わりに繊細で儚い美しさを放っていた。衣装と照明の効果もあっただろう。しかし、それだけではない。彼女自身が、ステージに立った瞬間から別の生き物のように変貌していた。

そして、その歌声。若いながらも深みのある声で歌う姿に、会場は魅了されていった。私も仕事でありながら、その歌に引き込まれていった。

あの楽屋で見た暗い影を抱えた女性と、今ステージで輝いている歌手が同一人物だとは、にわかに信じがたかった。


----- 芸能の不思議


コンサートが終わり、私の短いアルバイトも終了した。報酬をもらい、家に帰る道すがら、私は考えていた。

楽屋で見た彼女の姿と、ステージ上で輝いていた彼女の姿。この極端なギャップは何なのだろうか。

それは芸能人というものの宿命なのかもしれない。表と裏、光と影。人々を魅了するためには、どれほどの犠牲を払わなければならないのか。あるいは、あの痩せた姿は、彼女なりの美への追求だったのか。

16歳の私には、その答えを見つけることはできなかった。ただ、芸能の世界の不思議さ、そして厳しさを目の当たりにした瞬間だった。それは同時に、大人の世界の複雑さを知った瞬間でもあった。


----- 時を経て


それから五十数年の歳月が流れた。

石田あゆみさんは、その後、数々のヒット曲を生み出し、日本を代表する歌手として活躍しただけでなく、数多くのドラマや映画にも出演し、演技力も高く評価される俳優としても大きな足跡を残した。私は彼女の活躍を遠くから見守るような形で、時折彼女の曲をラジオで聴いたり、出演作品をテレビや映画館で見たりしていた。

彼女の楽曲や演技は、時代を超えて多くの人に愛されてきた。特に歌手としての代表曲『ブルーライトよこはま』は、今でも多くの人に歌い継がれる名曲となり、横浜のシンボルカラーであるブルーは、この曲に由来していると言われている。また、俳優としての代表作には、映画「火宅の人」、テレビドラマ「北の国から」「阿修羅のごとく」などがあり、その演技力の高さは多くの人に認められていた。その透明感のある歌声と繊細な演技は、あの日の記憶と重なって私の心に響く。

そして今日、彼女の訃報を聞いた。76歳での旅立ち。長い芸能生活を終えての別れとはいえ、やはり寂しさが募る。


-----最後に


16歳の冬、駿府会館の天井裏から見た光景。それは私の人生における小さな、しかし鮮烈な一場面だった。あれから五十数年が経った今でも、あの時の記憶は鮮明に残っている。

石田あゆみさんは、きっと常に何かと闘いながら歌い続けてきたのだろう。あの日の痩せた姿の背後には、どれほどの苦悩があったのか。そして、それを乗り越えてステージで輝く彼女の強さは、どれほどのものだったのか。

思えば、あの日見た光景は、人生における表と裏、光と影の象徴だったのかもしれない。華やかな表舞台の裏には、必ず見えない努力や苦悩がある。それは芸能の世界に限らず、あらゆる人間の営みに通じるものなのだろう。

今、石田あゆみさんの冥福を祈りながら、16歳の冬に見た光景を思い返している。あの日、少年だった私は、大人の世界の一端を垣間見たのだ。そして、あの日以来、五十数年の歳月が流れた今でも、鮮明に私の心に刻まれている。

石田さん、あなたの歌は永遠に多くの人の心に生き続けるでしょう。どうか安らかにお眠りください。


思えば、16歳の冬に見た芸能の世界の表と裏は、人生そのものの隠喩だったのかもしれない。私たちは皆、表の顔と裏の顔を持ち、光と影の狭間で生きている。

石田あゆみさんの訃報は、そんな遠い日の記憶を呼び覚まし、人生について改めて考えさせてくれた。彼女の歌声が、これからも多くの人の心に響き続けることを願って。

そして16歳の冬、大人の世界を垣間見た少年の記憶は、これからも私の中で生き続けるだろう。

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