第四十五話
――AM 08:55、エデン南区、七号店。開店五分前。
バックヤードの空気は、すでに戦場前のそれだった。
「店長、冷蔵便まだ来てないけど?」
リオンが片手に帳票、もう片手はスマート端末。視線は冷静、動きは素早い。
「ドライ品の棚を先に回して。冷蔵はエリックが到着後に即座対応する。サブ棚のバックアップ、昨日の残りで埋めて」
カナは店長としての声。トーンは穏やかでも、一切の迷いがない。
「了解」
リオンは短く返し、カートを押して倉庫奥へ。
「っていうかさ、開店五分前でこのピリつき方……いつもながら小売りの現場ってこうだよね」
ソフィーがタブレット片手に苦笑しながらPOPの更新を確認。
「ピリついてるんじゃなくて、集中してるの」
マリアは既に制服の袖をまくり、レジ周辺の棚チェックを済ませていた。
「……POP二枚、日付ズレてる。先週のまま」
エリックが棚の端からつぶやく。
「ほんとだ。あ、やば……これ私のやつだ」
ソフィーが慌てて該当タグを差し替える。
「ミスの指摘にはありがとうって言うのが七号店の流儀よ」
マリアの皮肉に、ソフィーは小さく舌を出して返した。
カナはそれを見て、短く笑った。
「――よし、開けるよ」
AM 09:00。シャッターが開く。
数秒後には客の靴音、声、商品を手にする音。
一気に店内の空気が現場になる。
誰も指示しない。
だが、誰もが持ち場へ吸い寄せられるように散っていく。
マリアは笑顔を貼りつけるように自然に、
「おはようございます、今日はこちらの特売が人気ですよ」と
主婦と冒険者の中間層に狙いを定めている。
エリックは商品補充の動線をずらさぬよう、
あらかじめ作っていた補充ルートを淡々と処理。
リオンはレジの空き時間にバックヤードへ戻り、在庫の確認と入荷差異のチェック。
ソフィーは売れる空気を読むように、店の奥と手前を交互に巡回。
目立つ棚の微調整とPOPの更新をかけながら、SNS向け写真を一枚撮る。
カナは、巡回しているように見えて、全員の視線とタイミングを観察していた。
ただの仕事じゃない
AM 10:40。ちょっとした混雑の波が落ち着いた頃、
バックヤードの一角で、マリアとリオンがすれ違った。
「……レジ、さっきありがと」
マリアが言うと、リオンは視線を戻さずに返す。
「問題ない。列が崩れる方が厄介だから」
「あなたってほんと、不器用な優しさの見本だよね」
マリアが苦笑しながら言ったが、リオンは何も返さなかった。
ただ、ほんのわずかに、口角が動いた。
PM 12:15。カナが腕時計をちらりと見て、ひとつ息を吐いた。
「じゃ、次の波に備えて、リセット入れましょう。リオン、マリア、交代で休憩回して。ソフィー、SNSの反応、昼向けに切り替えて」
「はいはい。あと、午後の客層、昨日より男性比高めだから、パッケージの訴求も調整しとく」
「了解」
「うん、回せる。バックは大丈夫」
指示は短い。だが誰もが理解していた。
ここはただの店じゃない。
自分が誰かの時間を預かっている場所だ。
七号店は、異世界都市エデンの片隅にある、ただの雑貨店だ。
だけどそこには、誰もが手を抜かず、背を預け合いながら、
毎日を積み重ねていく人々がいる。
彼らは誰一人として完璧ではない。
だが、信頼に値する人たちだ。
これは、そんな現場の、ほんの一日――
そして、明日もまた、何かが始まる。
――PM 18:30、閉店後。
店の灯りを落とし、スタッフたちはバックルーム奥のミーティングスペースに集まっていた。
丸テーブルを囲むのは、カナ店長、リオン、マリア、ソフィー、エリックの五人。
それぞれが水筒やメモ帳を手に、今日一日を終えたばかりの体で着席する。
カナが最初に口を開いた。
「じゃあ始めようか。今日は少し時間をとって、動線と棚の集中の見直しについて話したい。それと、夕方以降の人員配置も見直したいと思ってる」
【提案は、まずリオンから】
「午後の導線、いまの棚配置だとレジ列がPOP棚に干渉してる。特に混雑時に、手に取る前にあきらめる客がいた。調整が必要」
リオンは淡々と言ったが、言葉の端にはわずかな苛立ちが混じっていた。
ソフィーがすぐに反応する。
「でも、あそこ目立つ場所よ? 視認性は高いし、バズった商品が動くのは確実にあのポジションから」
「視認されても、手に取れなければ売れない」
「……それはわかるけど、POPはただの表示じゃない。流れを止めるフックでもあるのよ」
火花は飛ばない。
だが、空気に温度が宿るやりとりだった。
【マリアの調整】
「ふたりの言ってること、どちらも間違ってないと思う。リオンの言う通り届かない商品は意味がない。でも、ソフィーが言う注目を集める配置があるから売れてるのも事実」
マリアは両者の発言を受け止めた上で、
メモを見ながら言葉を続けた。
「実験的に、一部棚の向きを変えてみない? POPの効果は維持したまま、導線も広げられる方法を探す」
「やってみよう」
リオンが短く言い、
「それ、データ残しておいて」とソフィーが続けた。
衝突ではなく、議論が次に進む瞬間だった。
【エリックの指摘】
静かに聞いていたエリックが、手帳を軽く閉じた。
「……夕方の補充、全体的に遅れ気味だな。レジ対応が重なるのが原因。配置を時間単位で見直すべきだ」
「どこがボトルネック?」
カナがすぐ訊ねる。
「マリアとソフィーの動線が重なってる。棚の間口が狭い。あと、俺の発注処理が長引いて、バックヤードが一時的に止まった」
エリックは自分の非も正確に出す。
マリアがすぐに返す。
「なら私が夕方だけ回り込みます。中央通路にまわれば混線は減る」
ソフィーもあっさり頷いた。
「いいよ、その分私は客導線寄りに移動する。あの時間帯、案内多いし」
エリックは、表情は変えずに、ひとこと。
「……助かる」
【カナのまとめ】
全員の言葉が一巡したあと、カナはメモを閉じて言った。
「ありがとう。みんな、やっぱり強い。自分の持ち場だけじゃなくて、店全体を見て考えてる」
その声に、誰も何も返さなかった。
だが、テーブルを囲む五人の表情には、共通の温度が宿っていた。
言葉をぶつけ合っても、
それは関係が壊れるためじゃなく、
関係が正直であるために必要なもの。
七号店の強さは、そういう会議で育っている。
意見の違いが、信頼を壊すとは限らない。
むしろ、信頼がなければ、言い合いはできない。
七号店は、今日もまた全員で前に進んでいる。
その一歩は、静かに。だが確かに、踏みしめられていた。
――PM 21:05。
七号店のシャッターはすでに下りていた。
床のモップがけを終え、レジも締まり、商品の補充も済んでいた。
だが、誰も帰ろうとしなかった。
「マリア、麦茶いる?」
ソフィーが冷蔵庫を開けながら声をかける。
「いただく。助かる」
マリアは帳簿を抱えたまま、事務カウンターに腰を下ろす。
リオンは黙って椅子を持ってきて、ソファの隅に座った。
膝の上には、誰にも見せないメモ帳。
エリックは工具箱を片付け終え、
自分の水筒の蓋を静かに開けた。
そしてカナは、それらすべてを見渡しながら、
照明をひとつだけ残して、他を落とした。
【会話が始まるのは、ようやくここから】
「……今日は静かだったね」
ソフィーがぽつりと言った。
「静か? あれで?」
マリアが少し笑う。
「いや、うるさくなかったって意味じゃなくてさ、なんていうか……仕事は多かったけど、心が騒がなかった」
「流れが噛み合ってたからでしょ」
リオンが背もたれに寄りかかって答えた。
「……それ、あなたが言うと説得力あるのよね」
マリアが肩をすくめた。
【言わなければ、伝わらないこともある】
「エリック、今日ずっと手伝ってくれてたよね。補充のタイミング、完璧だった」
カナが言った。
エリックは首をかしげながら、
「……あれは、昨日の失敗の帳尻合わせ。本当は、誰にも気づかれないくらいに戻したかったけど」
「でも、気づいてたよ。だから、ありがとう」
エリックは短く頷いた。
それだけで、何かがきちんと伝わっていた。
【それぞれの明日】
「明日、開店すぐの便、多いよね」
マリアが帳簿を閉じて言った。
「うん。でも、補充チームはリオンとエリックなら心配ないし、私は店頭まわるから安心していいよ」
ソフィーが笑いながらウインクする。
「……あんまり余計なことしなければな」
リオンが軽くぼやく。
「それ、褒めたつもりで言ってるのよ?」
カナはそのやり取りを聞きながら、
ソファのひじかけに座って小さくつぶやいた。
「この空気、すごく好きだな」
誰も返事はしなかった。
けれど、誰も立ち上がろうともしなかった。
七号店の夜は静かだ。
開店中の喧騒が嘘のように、時間がやわらかく流れていく。
誰もが疲れているはずなのに、
その疲れを一緒に癒すように、ただ同じ空間にいる。
それは家族でも、恋人でもない。
けれど戦ったあとにだけ生まれる連帯という名の、
ささやかな絆なのかもしれない。
明日もまた、彼らは朝を迎える。
それぞれのペースで、でも同じ歩幅で。
――AM 07:43。
まだ街全体がまどろんでいる時間帯。
エデン南区も、通りを歩く人影はまばらだった。
七号店のシャッターはまだ閉まっている。
だが、その裏で、ひとつの扉がゆっくり開いた。
カナが静かに店内へ入り、空調を入れ、照明の一部だけを点けた。
薄暗い通路にほんのりと光が差す。
店舗全体が、ゆっくりと目を覚まそうとしている――そんな感覚。
【最初に来るのはリオン】
数分後、バックドアが開く音がした。
無言で入ってきたのは、いつもの通りリオンだった。
「おはよう」
カナが声をかける。
「……ああ、おはようございます」
短く返して、そのまま無言で倉庫へ直行。
だがその背中には、気配がある。
会話は不要、でも空気は共有してるという静かな信号。
カナは笑いながら言った。
「昨日の補充、棚にらしさが出てたよ」
「……それ、褒めてるんですか?」
「ええ、もちろん」
しばらくして、リオンが棚に向かいながらぽつり。
「……言葉で説明するより、並べた方が早いからな」
【少しずつ、集まってくる】
AM 08:03。
入口の鍵が回り、次に現れたのはマリア。
「おはようございます。カナさん、昨日の帳簿、まとめてあります」
「ありがとう。今日も安定の五分前行動ね」
「はい、リオンさんも……早いですね」
マリアは自然にリオンに声をかける。
リオンは棚の確認を続けながら、片手だけ挙げた。
「えっと、それ、返事ですか?」
「彼なりの挨拶なんだよね」
カナが助け舟を出す。
三人で交わす会話は、朝の音のように柔らかかった。
【そして、ソフィーとエリック】
AM 08:12。
エリックはいつも通り、時間ぴったりに現れ、黙って倉庫へ。
挨拶は目線だけ。
「おはよう、エリック」
マリアが手を挙げると、エリックも小さく頭を下げた。
「今日のPOPの再配置、午前中に確認したい」
それだけ言って、自分の作業へ戻っていく。
カナは「それは後で」とだけ返す。無駄のないやりとり。
AM 08:15、ソフィーが飛び込んでくる。
「みんなおはよー! 今日は天気がいいので、絶対お客さん多いわよ! SNSも早めに一発いっとくからねー!」
「おはようソフィー。あと、もうちょっと静かに扉開けてくれるとありがたい」
カナが笑って言うと、
「了解~でも、テンションは下げません!」
「そこは下げなくていい」
【始まる前の形】
AM 08:25。
スタッフ全員が、何かしらの持ち場に立っている。
まだ開店までは時間がある。
だが、それぞれの背筋にはもう今日が始まっている空気がある。
「じゃあ、開店準備。あと三十五分、よろしく」
カナの声に、誰も返事をしない。
だが全員が、確かに動き始める。
朝の静けさの中に、彼らのかたちがある。
誰かが声を出し、誰かは動きで応える。
そこには言葉よりも先に、信頼がある。
七号店の朝は、会話よりも呼吸で始まる。
その積み重ねが、今日もまた、強い現場をつくっていく。
AM 09:00。
シャッターが開いた瞬間、南区の喧騒が七号店の中に流れ込んでくる。
「いらっしゃいませ!」
マリアの声が自然に響き渡る。
入り口から冒険者、住民、職人――
多様な客が一気に店内へ広がり、
棚、レジ、相談カウンター、すべての動線が生き物のように動き出す。
【リオンの動線設計】
リオンは補充棚を移動させながら、店内の渋滞を未然に防いでいた。
棚の角度をわずかに変えることで、
通路の見通しがよくなり、客の流れが自然に誘導されていく。
「この位置を……もう少し広げるか。カゴ持ちが通れるように」
誰に言うでもなくつぶやいたその言葉に、
通りがかりのカナがちらりと目をやり、無言で親指を立てる。
それだけで、意志のやり取りは完了していた。
【ソフィーの即応センス】
「リオン、こっちに人が集まり始めてる! 新商品の棚、目立たせないと溢れるよ!」
「……棚ごと動かすか?」
「POPだけ動かす。あとは客の目線を引っ張るわ」
ソフィーはパネルの位置を即座に再構成し、
客の足が自然に回遊するよう誘導をかけた。
エリックがその様子を見て、
何も言わずに棚補充のタイミングを微調整する。
声はない。けれど、それぞれの判断が相互補完的に作用していた。
【マリアの間】
「これ、どれが使いやすいかしら?」
「よろしければ、実物で重さ比べてみませんか?」
マリアが商品をそっと渡す。笑顔は自然、押し付けがましくない。
「これ、指にちょうど馴染むわね……ありがとう」
年配の女性客が嬉しそうに頷く。
だが、マリアは同時に後方の動線も視界に収め、
「次のお客様、お待たせいたしました」と流れるようにレジへ移動する。
接客の中に、動線も、時間も、全部入っていた。
【エリックの静かな支え】
バックヤード。
エリックはデータ端末を片手に、商品搬出の順序を静かに組み替えていた。
「サブ棚の減りが予測より早いな……補充前倒しか」
補充作業に向かう途中、
彼は足元に落ちていたタオルを無言で拾い、
そのまま別のスタッフの忘れ物も整えて、何も言わずに元に戻す。
誰にも気づかれない。けれど、
その無音の補強が、全体のバランスを保っていた。
【カナの気配】
カナは、売場と事務所のあいだを静かに行き来していた。
スタッフの動きを直接管理はしない。
ただ、流れを感じて、崩れそうな部分には先に声をかける。
「マリア、少しペース落として。レジ前、ソフィーがカバー入るから」
「了解。ありがとう」
「エリック、午後の補充スケジュール、変更あり。休憩前に打ち合わせを」
「わかった」
言葉は短く、要点だけ。
だが全員が、その一言に自分が見られているという安心を感じていた。
PM 12:05。
昼のピークが静かに過ぎようとしていた。
「……混雑、解けました」
エリックが短く報告する。
「じゃあ、休憩回しましょうか」
カナが言うと、スタッフは順番に持ち場を引き継いでいく。
「この静けさ……好きよね、何となく」
ソフィーがつぶやくと、リオンが珍しく笑った。
「嵐の後、じゃなくて、航海中の凪って感じだな」
「……意外と詩人なんだから」
全員が、自分の役割を果たしながら、
互いを補うことに自然になっていた。
それが七号店の仕事だった。
流れるように現場は動く。
一つ一つの判断がつながり、言葉にならないやり取りが、
この店らしさを形づくっている。
働くとは、誰かと同じ景色を見つめることなのかもしれない。
七号店は、今日もまた、静かに正確に、働いている。
――PM 14:12。
七号店の空気は、昼のピークを超えてゆるやかに落ち着きはじめていた。
「午後の補充、順次かけていきます」
エリックがタブレット端末を見ながらカナに告げる。
「お願い。私は休憩後に棚チェックに回るわ」
カナが返す。
ソフィーはバックオフィスからひょいと顔を出した。
「このタイミングでSNS投稿、どう思う? 午前中の投稿がじわじわ数字伸びてるから、もう一発投下してもいい気がするけど」
「悪くない。午後に来る層、そろそろ動き始める時間だし」
マリアが時計をちらっと見て答えた。
「OK、行ってくる」
ソフィーは軽く指を鳴らしてタブレットを構えた。
その時――マリアがふと目を細める。
【違和感の察知】
「……あれ?」
マリアは入り口付近の棚を横目に見ながら、
視界の端に映った光景に軽い違和感を覚えていた。
(なんだか今日は、若い冒険者が多い……それも、妙に初々しい子たちが多い)
装備も軽く、表情もまだ慣れていない――
新人。それも、ギルド登録したてという雰囲気の者が多い。
「……学生期末のタイミングか、はたまたギルドの新人指導週か」
呟くと、すぐカナが聞き取っていた。
「マリア、それ、確定?」
「明言できないけど、動きのぎこちなさ、装備の選び方、説明書を読む頻度……ちょっと目立ってます」
カナは一瞬で判断した。
「ソフィー、SNS投稿の文面変更。新人冒険者向けサポートコーナー展開中を入れて」
「任された」
「リオン、入り口棚のポーションと防具小物、目立つ位置に再構成。特に簡易装備系を前に出して」
「了解。切り替える」
【即応の現場】
ソフィーがタブレットを操作しながら棚を巡回、
リオンが補充リストを瞬時に切り替えて新配置、
エリックは新人がよく手間取るであろう棚周辺の導線を微修正し、
マリアは何を求めているか分かっていない客への声がけに切り替えた。
「こちら、初めての方にはおすすめですよ。軽量で使いやすく、説明も共通語・エルフ語対応してます」
「えっ、あ……ありがとうございます」
戸惑いながら頭を下げる少年冒険者。
隣の少女が、少し照れながら聞く。
「あの……店員さん、初心者セットって、何から選べばいいんですか?」
「用途、行き先、パーティ構成を教えてもらえれば、必要な装備を削ぎ落とさずに選べます。急ぎます?」
「ちょっとだけ……!」
「了解、三分で案内しますね」
マリアは内心でカウントを始めていた。
【五人目の目線】
そのやり取りを、カナは入り口近くから静かに見ていた。
一つ一つが、言葉にしなくても自然に起きている。
(判断はマリア、展開はソフィー、整理はリオン、補助動線はエリック……)
カナは一歩引いた位置で、スタッフたちの呼吸を見守っていた。
彼女の仕事は、もう指示することではなかった。
起きたことに意味を与えること、
支えるために気配を残すこと――
それが、今の自分の仕事だと理解していた。
PM 15:00。
新人冒険者たちの波が去ったあと、
七号店は少しだけ、深呼吸をするように静けさを取り戻した。
「いやー、新人って見ててヒリヒリするよねー。自分もあんなだったかと思うと泣けてくる」
ソフィーがストレッチしながら言うと、
「君、泣くようなタイプじゃないでしょ」
マリアが肩をすくめて返す。
「俺は、最初の頃もっとヘマしてたけどな」
リオンがぼそっと漏らし、
「記録がないと信じられないな」
エリックが平然と返した。
カナは笑った。
「その頃があったから、今があるんでしょ」
七号店は、そういう時間を超えて、
今も、進んでいる。
――PM 16:25。
倉庫脇の小さなベンチ。
交代制の短い休憩タイム。
そこに先に腰かけていたのは、リオンだった。
いつものように無言で、ただカップを手にして座っている。
そこへソフィーがやってきた。
「おっ、先客? じゃあ隣、いい?」
「……どうぞ」
ふたりは並んで座った。
言葉はそれだけ。
しばらくの沈黙が、ふたりのあいだに落ちる。
【無言と無音の違い】
ソフィーはストレッチをしながら、ちらりと横を見る。
「リオンって、さ。無言だけど、静かって感じはしないよね」
「……それ、どういう意味だ?」
「うーん、黙ってるけど、考えてる音がするっていうか。ほら、たまに無みたいになってる人いるじゃん? あれじゃないよね」
リオンは肩をすくめた。
「喋ることが目的じゃない。伝える必要があるときだけ話す。それだけ」
「合理的だけど……効率って、損もするよ」
ソフィーはそう言って、ペットボトルの水を一口飲む。
「でもね、私たち、似てないようで、けっこう似てると思うよ」
「……どこがだ?」
「人の流れを読むのが好きなとこ。あなた、棚の配置や動線、ちょっとした空気の滞りにすぐ気づくでしょ?」
リオンは少しだけ目を細めた。
「そういうのは、仕事だからやってるだけだ」
「私は、店の空気をデザインするのが好きなの。人が気持ちよく動くのって、ちょっとした誘導と、想像力じゃない?」
リオンは一拍おいて、
少しだけ、口元を緩めた。
「……たしかに、君のPOPはよく人の背中を押してる。無意識にな」
【違っているから、支え合える】
「だからさ、私とあなた、やり方は違ってても――けっこう、同じゴール目指してると思うんだよね」
ソフィーの言葉に、リオンは何も返さなかった。
ただ、少し空を見上げ、
目を閉じて、深く一度だけ息を吐いた。
「……否定は、しないよ」
それが、リオンなりの同意だった。
ソフィーはふっと笑った。
「ま、喋らなくても、わかってるけどね」
17時直前。
ふたりは同時に立ち上がる。
「次は夕方の波、来るね」
「配置を少し動かすよ。客層が変わる」
言葉は短くても、二人の間には
違っていても並んで働ける距離感が確かにあった。
――七号店には、色々な価値観のスタッフがいる。
だけど、全員が同じ未来を見ている。
――PM 19:40。
店内は夕方の混雑を過ぎ、静けさを取り戻しつつあった。
エリックは帳簿の記録端末を片手に、補充品のチェックをしていた。
POPのずれ、商品ラベルの誤差、日付の重複――
細かなミスが重なる時間帯でもある。
マリアはレジを締めながら、視界の隅でそれを見ていた。
誰もが疲れてきた時間帯だ。
それでも、エリックの動きには乱れがない。
(ほんと、この人、疲れたって顔ひとつしないのよね……)
【ふたりの夜の間】
「エリック、棚チェック、お疲れさま」
マリアが少し離れたところから声をかける。
エリックはほんの一瞬だけ顔を上げて、短く返す。
「……ありがとう」
「……大丈夫? あんまり喋ってないと、心配になるよ」
エリックは少しだけ間を置いて、言葉を探すようにして言った。
「喋らない方が、手が止まらないから」
マリアは苦笑する。
「それ、ちょっと悲しいね。喋るって、必ずしも止まることじゃないと思うけどな」
「……たぶん、君はそうだね」
「あなたは?」
「俺は喋ると考えがぶれるんだ。だから言葉を減らす。それだけ」
【感情の居場所】
しばらく無言が続く。
静かな夜の音――微かなBGM、風除けドアの軋み。
マリアがぽつりとつぶやく。
「でも、今日……レジ前で、あなたがPOPを直してくれたの、見てた。あれ、私が出し忘れてたやつだった」
エリックはそれにすぐには答えなかった。
ただ、マリアの方を見たあと、ふとつぶやく。
「崩れる前に、整える。それだけで、すごく楽になる。誰かが気づいていれば、だけど」
マリアは息を飲みかけて、微笑んだ。
「それ、感謝ってことにしていい?」
エリックは視線を外したまま、
ほんの少しだけ、頷いた。
閉店の準備が始まる頃。
マリアは伝票を整理しながら、ふとエリックに言った。
「また今度、私が崩れそうになったら……整えてくれる?」
「……もう、やってるよ」
マリアは驚いて、でも、それ以上何も言わなかった。
それがエリックの優しさのかたちだと、
知っているから。
――言葉を交わさなくても、通じている関係がある。
その静けさが、七号店を下から支えていた。
――PM 21:00。
七号店の営業終了を告げるチャイムが、やや控えめに鳴った。
「本日の営業は終了いたしました。ご来店、ありがとうございました」
マリアのアナウンスが終わる頃、
スタッフたちはそれぞれの持ち場を自然に片付け始めていた。
リオンは什器の角度を戻し、補充棚の動線を閉じる。
エリックは売上データの一部を倉庫端末に転送しつつ、在庫棚のズレを調整する。
ソフィーはPOPパネルの一部を回収しながら、目立った汚れを布で拭き取っていた。
カナは、巡回のように店内を見て回る。
特に指示を出す必要はなかった。
【動きと会話が混ざる時間】
「今日はなんだか、あっという間だったな」
ソフィーがつぶやくと、マリアが笑う。
「それ、毎日言ってるわよ。あっという間で終わらない日は、たぶん来ないと思うけど」
「確かに。あっという間じゃない日は……長かったって感じるだけかも」
「一日って、振り返ると、すごく長くて、でもあっけないのよね」
カナが棚の端に手をかけながら、穏やかに続ける。
そのやりとりを聞きながら、リオンは陳列台を持ち上げたまま、
ぽつりとつぶやいた。
「……長く感じる仕事は、たいがい流れが悪い」
「それ、名言っぽい!」
ソフィーが笑って、POPパネルを軽く掲げる。
「リオン語録、店内掲示しようかな」
「やめろ」
返答は、即座だった。
【積み重ねが空気になる】
「エリック、倉庫のチェック完了?」
マリアが声をかける。
「ほぼ。破損ゼロ、棚ズレ1箇所修正済み。明日の冷蔵便は早朝。荷捌き注意」
「了解。明日は私が最初に回るわ。リオンと交代で」
「受ける」
それだけのやり取りで、次の日の動きが整っていく。
カナはその一連を聞きながら、静かに笑った。
「ねえ。こうして見ると、私、ほとんど何も言ってないのに、全部進んでる」
「信頼と習慣の合わせ技、ですね。あと、良き店長のおかげかな」
マリアがからかうように返す。
「あら、店長としては嬉しいけど、ちょっとだけ寂しいな」
「じゃあ、たまには指示っぽいこと言ってみたら?」
ソフィーが悪戯っぽく言う。
カナは考えるフリをして、口を開いた。
「……じゃあ、みんな、明日も今日より笑顔で。よろしく」
「それ、仕事じゃなくてお願いじゃん」
「でもまあ、承りました」
「笑うのは得意じゃないけど、顔が怖いのはソフィーだからな」
「ちょっとリオン、それどういう意味~?」
閉店後の空気は、働いているときよりも、
仲間に近かった。
PM 21:38。
全ての照明が落とされ、店舗は完全に静かになる。
スタッフたちは順にカードリーダーに自身のIDカードを通し、
小さな「おつかれさま」の声を交わしながら帰路につく。
カナは最後にレジ前に立ち、
まるでお客様がまだそこにいるように、軽く頭を下げた。
「今日も、ありがとうございました」
それが、彼女なりの締めくくりだった。