ナタリアは絵を描く兵隊さん
少女ナタリアは、絵を描く兵隊だった。
戦争が始まる前、彼女はただの画家になりたかった。絵を描いて世界中の人にこの世界にある美しいものを伝えることが夢だった。しかし、戦争が始まった。彼女は夢を諦めざるを得なかった。そして兵士となり、戦場で命をかけることになった。
ナタリアは徴兵事務所に出頭した。
徴募係のいかつい軍曹がナタリアを胡散臭そうに見ながら「何か得意な事はあるか」と聞いた。ナタリアはびくっと体を震わせて小さい声で「絵を描くことです。」と答えた。
「聞こえない。もっと大きな声で。」
「絵を描くことであります。」
ナタリアが声を張り上げると、軍曹はにやりと笑って言った。
「それは良い。絵を描くのは戦場では実に役に立つ技術だ。」
軍曹はナタリアの書類に殴り書きをして次の兵士の面接に移った。
ナタリアが振り返ると軍曹の左腕がなく軍服の片側の袖がピンでとめてあった。
最前線に配属された彼女は、他の兵士たちが銃を構え、戦車を操縦する中で、スケッチブックと鉛筆を持ち歩いていた。
彼女に課された任務は、戦況をスケッチで記録することだった。戦争の中で、地形や敵の動きを最も確実に伝えられるのは絵だと上官から聞かされていた。ドローンやAIが登場した現代でも、絵が持つ情報の密度と感覚的なリアリティは大きな意味を持つ。肉眼による観察力は決して過小評価されるべきではない。
それに、絵を描くことは彼女にとって最も自然で、唯一楽しめる任務だった。
彼女は毎日、最前線を駆け巡り、戦場の様子を記録した。鉛筆とパステルを使い、素早く状況を描き込んだ。その手際の良さと鮮やかな表現は、上官たちを驚かせ、信頼を得ることになった。そして上官たちを満足させたのは戦場の感情と湿度まで写し取っていたことだ。つまりとても人間的な情報だったという事でもある。しかし、絵の隅に可愛い女の子の絵を描いたとき、上官に怒られた。
「必要な事だけ書いていればよろしい。大事なことは速やかな情報の伝達だ。」
戦争の中で絵心を持つことは時に不適切だとされるが、彼女は気にせずに描き続けた。それが彼女の慰めだった。
任務の合間、他の兵士たちからリクエストをもらうこともあった。兵士は「俺の絵を描いてくれ」と頼み、彼女はその頼みに応じて、素早くその兵士の顔をスケッチした。リクエストに応じることで、兵士たちは笑顔を見せ、ほんのひとときでも戦場の重圧から解放されるような気持ちになっていた。彼女もまた、その一瞬の温かさを感じ、絵を描くことに意味を見出していた。
兵士たちは家族へ送る手紙にナタリアの描く絵を同封したがった。家族になるだけ安心してもらえるようなものが欲しかった。肖像画でも犬と遊んでいたり仲間と食卓を囲んでいるような和やかなものが人気だった。近くの風景の絵を描いてほしいという兵隊も多かった。家族が欲しがるのだそうだ。家族のお父さんやお兄ちゃんが見ている風景に思いを馳せ、少しでも近くにいるように感じたかったのであろう。最初に近くの山の絵を描いたら手紙を検閲した士官から怒られた。
「宿営地の位置を推測できる絵は危険である。それから求めた座標で砲爆撃される可能性がある。」
よくわからなかったがナタリアは次から風景を描くときはデフォルメして描くことにした。
だが、画材を持ち歩くことは不便だった。偵察任務ではスケッチブックと鉛筆と茶褐色のパステル1本だけ持って行く。しかしもっと色を使いたかった。パステルを何本か手に入れることができたが、それ以上に荷物が増えるのは負担だった。戦場ではそういうものだと理解していた。
奇妙なことに、やがて調達屋がどこからともなく画材を調達してくれるようになった。調達屋というのは軍隊に必ずいる事情通の古参兵士で、様々な手腕で闇で物資を手配してくれる人である。
実は彼女に絵をリクエストして描いてもらっている兵士達が相談して、調達屋に供給を頼んでいたのである。始めは缶詰やココアなど置いていったのだが荷物が増えるとかえって困るので、調達屋を介して彼女が一番欲しがっていた画材が入手できるように取り決めたのである。兵隊社会は案外組織化されているものだ。
もちろん彼女は絵具や筆を手にして大喜びだった。特に喜んだのが紙で、上質画用紙の滑らかな描き味を彼女は楽しんだ。物資が不足している中、画材が手に入ることは非常にありがたかった。後方に戻ることができた時、彼女は時折、絵を色付きで描くことに喜びを感じたし、兵士の家族あての手紙にも清明な色が付くようになったのである。
戦車部隊からマスコットを描いてくれと頼まれたときもあった。彼女が描いた絵を見せると、部隊の兵士たちは目を輝かせ喜んだ。整備中隊には器用で絵心のある兵が多い。しかし型にはまった軍人風の絵から離れた可愛い絵は貴重だったし彼女の技術が評価されていた。
ある時は連隊本部で「これなら勝てる」という配布資料の挿絵を描かされた。敵戦車の弱点だったり、仕掛け爆弾の注意だったり情報将校が黒板に書きなぐるポンチ絵を謄写版用に描き直して原稿を作った。漫画にしてみてはどうかと思い切って提案したら将校のツボにはまったらしく一発で通った。かわいらしい妖精さんが兵器や戦術を解説する資料は部隊で大好評で、近隣部隊へ配布するための大増刷が必要になった。
しかし、戦争の現実は厳しく、彼女の心は次第に疲弊していった。戦場での任務は過酷で、彼女は度々命の危険を感じた。ある日、彼女は瀕死の兵士を後に残して撤退せざるを得なかった。そのときのことを思い出すと、胸が痛んだ。しかし彼女の任務は絵に描くことでありそれを情報として本部まで知らせることだった。兵士としてこの使命を果たすために、彼女は戦場を駆け抜け続けた。
ある豪雨の中、彼女は防水キャンバスにパステルで情報画を描き続けた。雨が降りしきる中でも、絵を描くことは彼女の任務だった。雨水に濡れるパステルを手に、絵を描き情報を伝えることが彼女の役目だった。
ある時前線で描いた敵情偵察のスケッチを提出すると、師団の作戦会議に呼ばれ色々聞かれた。素直に見た通りの状況を報告した。師団の参謀はナタリアのスケッチをもう一度穴のあくほど見つめると意を決して電話をかけ始めた。ナタリアは何が起きてるかよくわからなかったがリンゴを一つもらって部隊へ帰った。
一週間後ナタリアは褒章休暇を3日貰った。勲章ものだとか言う人もいたがナタリアは休暇の方がありがたかった。物知りの本部中隊付軍曹はナタリアの描いた最前線での情報画に重要な物が描かれていたと解説してくれた。
「お前さんの描いた絵に車があったろう?」
「えーっと敵陣の方の奴ですか。」
「かなり距離があったはずだが良く描けてた。師団参謀がカーマニアだったのか知らんが『この車は高級車だ。この種類だと軍団長クラスだ。敵の攻勢は近い。』と警報出したんだな。それで増援が間に合って戦線が維持できたんだと。」
「はあ、そんな大事なものだったんですか。」
ナタリアは車には興味がなかったし車種など全然わからない。ただ見たものを愚直に描いただけなのである。よくわからなかったが、それでお役に立てたなら嬉しかった。
何よりも休暇がありがたかった。故郷の街まで帰るには足りなかったけれど後方の街に行くのには十分だ。そこには良い美術館があった。
ナタリアは町に入ると、一番先に美術館に足を向けた。美術館では貴重な収蔵品の疎開準備が急ピッチで進められていたが、彼女は連隊長の紹介状を手にしていたため、特別に中へ入れてもらうことができた。
その美術館には、数世紀にわたって収集された名画の数々が展示されていた。時を超えて愛され続けた作品たちが一堂に会し、その美しさはまさに饗宴のようだった。ナタリアはその光景に圧倒され、一日かけて美術館の隅々まで見て回った。
彼女は前線でも後方でも常に絵を描き続けていた。戦争は過酷で無情で、彼女の心は次第に疲弊していった。それでも、絵を描くことだけは彼女にとって唯一の安らぎだった。描くことで、彼女は戦争の現実から一時的に逃れることができたのである。
ある日、最前線で彼女は狙撃兵の銃弾に倒れた。彼女のスケッチブックは血で染まり、その中に残された絵は、戦場で命を懸けて生きた証となった。彼女が描き続けた風景や人々の姿は、後世に伝えられるべき貴重な記録であり、芸術作品であった。
彼女の死後、ナタリアのスケッチブックは同僚たちによって回収され、美術館に寄贈された。それは彼女の遺志を継ぎ、戦争の惨禍を後世に伝える重要な資料として、大切に保存されることとなった。
美術館の一角に設けられた特別展示コーナーでは、ナタリアの作品が訪れる人々の心を打った。戦場での過酷な日々と、その中で見つけた一瞬の美しさが描かれた絵は、見る者に深い感動を与えた。彼女の絵は、戦争の悲惨さだけでなく、人間の持つ強さと希望をも伝えていた。
[終わり]
この小説で出てきた美術館はマドリッドのプラド美術館のイメージです。ベラスケスやゴヤなど豪勢かつ民族的記憶と言うべき絵が収蔵されています。スペイン内戦時、カタルーニャ美術館と同様に収蔵品の疎開が行われました。
ナタリアを殺したくなかった。喜劇にしたかった。しかし世界各地で流血が起きている現状を見るとこういう結末の方が作者として誠実なのではないかと思いました。戦地に平和な日が訪れんことを祈ります。