【9】 悪戯
窓から差し込む心地よい朝陽に照らされ、私は清々しい気持ちでベッドから起き上がった。
「んー!」
灼也様が用意してくれた自室で一人、私はぐぐーっと伸びをして爽快な朝の気分に浸っていた。こんなにぐっすりと眠れたのはいつ以来だろう? もしかしたら、生まれて初めてのことかもしれない。視界がくっきりと澄み渡り、全身に力が漲っている。
美味しいいなり寿司をたっぷりと食べて、ふかふかの清潔なベッドで眠ったおかげだろう。妖怪と結婚と聞かされた時はどうなることかと思ったが、よもやよもや、こんなに溌剌とした朝を迎えられるなんて!
嘉村家にいた時の部屋の倍以上ある広さの自室を見渡し、私は一人感慨に耽った。寝床は砂と泥でざらつくことのない、柔らかで気持ちが良いベッド。かけ布団も勿論、新聞紙なんかではない。雨漏りも隙間風も何もなく、ひたすらに居心地が良い。お姫様になったんじゃないかと思ってしまうほどの贅沢な環境だ。
……事実、お姫様なのかもしれないが。と気づいて私は改めてゾッとした。
私は特異点の巫女として、白妙の軍神・灼也様との間に妖怪の未来を担う希望を産むのが使命なのだから。灼也様は昨夜、「子作りは気にしなくていい」と仰ってくれたけれど……それでも、いずれはその時がくるのは明白だ。
嘉村海理として。
偽物の花嫁として。
騙し、欺き、子供まで作ってみせるのだ。
その果てが破滅なのか、平穏なのか、どうなるのかはまったくわからない。それでも、灼也様を失望させないために、私は偽物の花嫁を演じ続けるしか道はない。
「……よし」
海理ちゃんのお古の着物に身を包み、私は精一杯意気込んだ。今日も今日とて、灼也様を騙す一日が始まるのだ。不安も罪悪感も丸ごと飲み干して、特異点の巫女・嘉村海理として生きていこう。
▼ ▼ ▼
ダイニングルームでいただいた川田さんお手製の朝食はとんでもない美味しさだった。炊きたての白いごはん、鮭の塩焼き、油揚げの味噌汁、菜の花のおひたし、どれもこれもが圧巻の美味しさで一口食べるたび極楽に召されてしまいそうだった。
鮭の塩焼きの塩辛さがごはんの旨みを引き出し、菜の花のおひたしが口の中をさっぱりとさせ、そこに濃厚なお味噌汁が染み渡り、更にごはんの旨みを誘発する……と、それぞれがお互いの美味しさを最大限挽き立て合っているのだ。それはもう、箸が止まらなくなるほどに。
「フフッ」
もぐもぐと食べ続ける私を見て灼也様は軽やかに笑っていた。
……。
不安も罪悪感も丸ごと飲み干して、特異点の巫女・嘉村海理として生きていこう。と、偽物の花嫁としての覚悟を決めたばかりだというのに、朝ごはんに夢中になってしまう体たらく。我ながら恥ずかしさと情けなさで朝から穴があったら入りたい。
そんな私に向ける灼也様の優しい笑顔は余計に眩しかった。
「ご馳走様、っと」
早くも食事を終えた灼也様はゆったりとした表情で新聞を読み始めた。川田さんから聞いた話によると、灼也様は人の世を愛しているようで新聞もわざわざ帝都から取り寄せているらしい。
三杯目のおかわりをぺろりと平らげて、私は一息吐き出した。もう一杯、ごはんと味噌汁を食べたいところだが流石に食い意地が張っていると叱られるだろうか。そもそも三回もおかわりをしている時点でダメだろうか。
悶々と葛藤をしていると、灼也様は身を乗り出して私の前に拳を差し出した。
「ねえ、キミ。これを見て欲しいんだけど、いいかな?」
そう仰って、灼也様は神妙な顔つきで私を見つめた。神秘的な白髪が風もないのに優雅に揺れて、長いまつげがキラキラと煌めいている。常軌を逸した美貌を朝から至近距離で見つめるなんて、息が詰まりそうになりながらも、ついつい見蕩れてしまった。
「……見て欲しいのは僕の顔じゃなくて、こっちだよ」
むぅ、と可愛らしく頬を膨らませて灼也様は右手の拳を突き出した。欲に負けて見蕩れてしまったことを恥じつつ、私は今度こそ拳に視線を向けた。何か握っているようだが……と首を傾げて覗き込んでみた瞬間、灼也様は一気に拳を開いてみせた。
同時に、こんっ! と奇妙な音が響いて灼也様の手のひらから一匹の白鳩が凄まじい羽ばたきと共に飛び立った。
「ほぎゃーっ!」
思いも寄らぬ白鳩の出現に私はびっくり仰天し、手に持っていたお茶碗を危うく落としてしまいそうになりながら素っ頓狂な叫び声を上げた。そんな私の頭上をバサバサと羽音を鳴らしながら白鳩が飛んでいった。
「フフッ! あはははは! ほぎゃー、だって!」
膝を叩いて笑う灼也様を見て、昨夜のカエルに続いてまたしても騙されたことに気づき、私は顔がじゅわっと熱くなるのを感じた。おそらく、妖術を用いて小さくしていた白鳩を拳の中に潜めていたのだろう。
してやったり、と言いたげな灼也様の悪戯な笑みが憎らしくも美しい……。
「ごめん、ごめん! 昨日の反応があまりに面白かったからさ、もう一回イジワルしたくなっちゃったんだ。いやぁ~、何度見てもキミの反応は最高だなぁ」
くるっぽー、と鳴く白鳩を手のひらの上に乗せて、灼也様はたおやかに微笑んだ。すると、再び、こんっ! と奇妙な音が響くと共に手のひらの上の白鳩が今度は銀色の懐中時計へと変化した。
そして、灼也様は鈍い光を放つ重厚な作りの懐中時計を私の手にそっと置いた。
「え?」
「悪戯したお詫びにあげるよ」
「な! なななななな!」
真摯な眼差しで言い放った灼也様の言葉に、私は白鳩を見た時よりも驚き慌てふためいた。左手にお茶碗、右手に懐中時計を持ってしどろもどろになる姿は傍から見ると相当にヘンテコなものだっただろう。……灼也様は下唇を噛み締めて必死に笑うのを堪えているし。
「こんな高価なものを受け取るわけにはいきません……」
その懐中時計は素人目に見ても高価なものであることは明白だった。お父様が持っていた懐中時計と比べても遙かに立派だ。白妙の軍神の妻とはいえ、いくら何でも私には分不相応過ぎる。
「お詫びなんだから気にしないでよ」
「で、ですが……」
「実は、この懐中時計には僕の妖力が込めてあってね。キミに何かあった時のためのお守りとしても持っていてほしいんだ」
お守り、という風に言われてしまうと無碍に断るわけにもいかず、これ以上にうだうだと否定し続けると灼也様の笑顔を曇らせることになりかねない、と私は申し訳ない気持ちを押し殺して懐中時計を受け取ることにした。
「では……ありがたく頂戴つかまつりまくります」
気が動転していたせいで自分でも驚くくらい酷い言葉遣いだった。
いざ、この懐中時計が自分の所有物になる、と思うだけで声が震えて頭がふわふわになってしまったのだから、こればかりは仕方がない。そう開き直りながら、手のひらの上でチクタクと時を刻む懐中時計を見下ろすと妙に頬が緩んでしまった。
これは、灼也様からの贈り物なのだ……と。
「おっと、もうこんな時間か。そろそろ着替えてこないとね」
懐中時計を一瞥し、丁寧に折り畳んだ新聞を脇に抱えて灼也様は立ち上がった。先程までケラケラ笑って明るかった表情は面倒臭そうに淀んでいた。
「あ、あの……どこかお出かけでしょうか?」
「うん。ちょっと、白妙の軍神として町に用事があってね」
気怠げに肩を回しながら答えた灼也様は何かを思いついた様子で、カッと目を見開いた。
「あ、そうだ。一緒に行くかい?」
灼也様からのお誘いに私は二つ返事で頷いた。妖怪の国に嫁いできたばかりで何をしていいのか、何をして過ごせばいいのか、手持ち無沙汰でしょうがなかったのだ。家事の手伝いをさせてもらえないか、と川田さんに相談したが「奥方様はのんびりしててください」と受け流されてしまったし……。
「お邪魔でなければ、是非!」
私は嬉々とした気持ちを弾ませて、勢いよく立ち上がった。