【8】 変化
川田さんに手伝ってもらって白無垢を脱いだ後、海理ちゃんからもらったお古の着物に袖を通した。お古といっても、当然ながら私が着ていたツギハギの着物に比べれば遙かに上等なものだ。少しほつれている部分はあるが、これくらいなら隠し通せるだろう。
「あら。奥方様、とても素敵ですね」
着替え終わった私を見て、川田さんは穏やかに微笑んだ。私は照れ笑いながら、川田さんの姿をチラチラと見た。パッと見は人間のおばあさんにしか見えないけれど、川田さんも立派な妖怪なのだそうだ。曰く、灼也様の使用人として千年近く仕えているとのこと。
「九重様の素の姿にはびっくりされたでしょう?」
「え……。あ、えっと……」
何と答えたものか、と思い悩んでいる私に優しく頷いて川田さんは「大丈夫ですよ」と頬を緩めた。
「あんなの、びっくりして当然ですから。だって、いぶかしい武人から突然、ひょうげた美男子に豹変するんですもの。私も初めて見た時は腰が抜けちゃいましたよ、ほほほ」
川田さんの朗らかな雰囲気はどことなく、死んだ叔母に似ている気がした。そのおかげで人見知りの私でも少し話しただけで親近感が湧き、すぐに打ち解けていった。
「九重様が素顔を晒せる者は極僅か、片手の指で数えられるほどしかいません。白妙の軍神の秘密がバレたら妖怪の国は大騒ぎになっちゃいますからね。だから、仮面を外すのは信じられる者の前だけなのです」
「し、信じられる者……」
「ええ。九重様は奥方様のことを信頼しているのですよ」
信頼。
特異点であることを偽って、海理ちゃんのフリをして、本性を隠して欺き続けている私に対して信頼をしてくれるだなんて……。と、私は胸がズキズキと痛むのを感じた。偽物の花嫁としては大成功なので喜ぶべきなのだろうが、良心の呵責が酷い。
「さあさあ、こちらに」
川田さんに連れられて私は屋敷の中をトボトボと歩いた。鮮やかな西洋の装飾が施され、高尚な絵画や美術品が飾られている廊下を真っ直ぐ進む。そして、魔王城の門かと見紛うほどの豪奢な扉を開けると、これまた圧巻の大広間に辿り着いた。
「うわぁ」
思わず情けない声が漏れ出るほどに大広間は広く、天井は高く、果てしなく開放的だった。天井から吊り下がる宝飾品のような電灯は煌びやかな灯りを放ち、豪華絢爛たる家具の数々をキラキラと照らしている。
「ここは西洋文化ではダイニングルームと呼ばれる部屋です。ごはんを食べたり、まったりとくつろいだり、自由にお使いくださいね」
川田さんは私をテーブルの前に案内し、「食事を持って参りますので少々お待ちくださいませ」と言い残して一目散に走り去って行った。私にも手伝わせて欲しい、と言おうと思ったのだが、川田さんの走る速さが尋常ではなさすぎて間に合わなかった。
しょうがないか、と諦めて私は改めて部屋の中を見渡した。
真っ白な壁、柔らかな絨毯、澄み切った空気、とダイニングルームは信じられないほど清潔だった。嘉村家をどれほど入念に掃除してもここまで清らかにすることは不可能だろう。
目の前のテーブルはとても大きく、十人以上が同時に食事をできそうな雄大さを誇っている。その上に敷かれたテーブルクロスは灼也様の姿とおそろいの純白で、きめ細やかな刺繍が見目麗しい。
いつまでも突っ立っているのは逆に気を遣わせて失礼かもしれない、と思った私は白樺の椅子に恐る恐る腰を下ろした。お尻を優しく包み込み、背中をふわりと支えてくれる椅子の安心感に身も心もとろけそうになっていると――。
着替えを終えた灼也様がダイニングルームを訪れたことに気がつき、私は慌てて飛び上がった。
「やあ、お待たせ」
仮面を外した素顔を綻ばせて、灼也様は小さく手を振った。私はあたふたとしながら頭をぺこぺこと下げ、灼也様の姿を見上げた。
薄墨色の涼しげな着流し姿の灼也様は軍服姿の凜々しい美しささとはまた異なる、自然体の美しさを纏っていた。先刻よりも一層、軽やかな雰囲気だ。それは決して軽薄という意味ではなく、心が弾む軽妙さ。早朝に吹く一陣の風の如き爽やかさだ。
「フフッ」
美しさに見蕩れる私の呆けた顔が余程まぬけだったのか、灼也様は吹き出すように笑った。私は恥ずかしさで顔面が熱を帯びるの感じて、ひたすらに小さく縮こまった。
「そんなに恥ずかしがらなくて大丈夫だよ」
私のすぐ傍まで近づき、灼也様はそっと耳元で囁いた。突然の至近距離からの灼也様の言葉に私は目を白黒させた。ほんのりと温かな吐息に耳をくすぐられ、穏やかな声色に鼓膜を撫で回され、頭がどうにかなってしまいそうだった。
心を水面に見立てて乱れた感情を静めなければ! と必死になっている私に対し、灼也様はくすくすと子供のように無邪気に笑っていた。
「あらあら、随分仲良しさんですねぇ」
そうこうしている間に戻ってきた川田さんは灼也様と私を眺め、ニマニマと微笑んだ。ふと、ほんのりとした美味しそうな香りがしていることに気づき、反射的におなかの音が見苦しく鳴ってしまった。
きゅぅ~。
「フフフッ、可愛いおなかの音だね」
「も、申し訳ございません……」
穴があったら入りたい。そのまま永遠に閉じこもっていたい。と、私はぺこぺこと何度も頭を下げてひたすらに謝罪の言葉を重ね続けた。
「結婚式では緊張しすぎて何も食べられなかったもんね」
「そ、それは……」
そこまで見透かされていたのか……と私は更に申し訳なくなって縮こまりかけた、が、これ以上に縮こまったら余計に惨めな姿を晒してしまうだけだ、と反省して無理矢理にでも背筋を伸ばすことにした。
海理ちゃんならそうするだろう、と頭の中に双子の妹の顔を思い浮かべて。
「し、失敬しましたわん!」
語尾が変なことになってしまったけれど、灼也様は咎めることもなく爽やかな笑みで私の隣の席に腰を下ろした。
「川田さんが作ってくれたご馳走、一緒に食べよっか」
そう仰った灼也様の視線の先に、美味しそうな香りの正体を発見して私は自然と目を見開いていた。テーブルに置かれた大きな寿司桶、そこには沢山のいなり寿司がギュウギュウに詰まっていた。
いなり寿司……お寿司なんて生まれてこの方、食べたことなんてない。白いお米ですら、叔母が生きていた頃に内緒で食べさせてもらった三回しかないというのに。こんな美味しそうなものをいただいてもいいのだろうか、と私は口の中に広がる唾液を呑み込みながら頭を捻った。
「妖怪の国の食べ物だからといって、何も心配しないでいいからね。食べたら内側から妖怪になっていく……なんてことはないんだから」
「は、はい……」
灼也様の言葉に感謝をしつつ、心の内側では妖怪になることに何の躊躇いもなかった。むしろ、偽物の花嫁の役割を全うするためなら進んで妖怪になりたい、とすら思っていた。そうすれば、少しでも灼也様に相応しくなれるかもしれないし、と。
そんな呆けたことを考えている私の前に、灼也様は小皿に乗せたいなり寿司を差し出してくれた。
「はい、お食べ」
「あっ、ありがとうございますっ」
灼也様に料理を取り分けてもらった申し訳なさでいっぱいいっぱいになりながら、私は震える指先で小皿を受け取った。ふわり、と酢の香りが漂い、再びおなかが鳴りそうになったのを何とか食い止めた。
その瞬間。
こんっ! と奇妙な音が響き、小皿の上のいなり寿司が突如としてカエルになった。
げろげろ。
「……」
げろげろ。
「……」
げろげろ。
「ほぎゃーッ!」
小皿の上でげろげろと鳴き続けるカエルを見つめ、私は今までに出したことのない素っ頓狂な叫び声を上げて跳びはねた。決してカエルが苦手なわけではないが、ついさっきまでいなり寿司だったものがいきなりカエルになったのだ、驚く他ないだろう。
「フフッ!」
隣で私を見つめていた灼也様は我慢できない様子でおなかを押さえて、じたばたと足を振り乱し、盛大に大笑いしていた。
「ほぎゃー、だって! フフッ! あははははっ!」
「あうぅ」
ゲラゲラと笑い続ける灼也様を見て、私は全身が燃えるような熱を帯びていくのを感じた。いくら驚いたとはいえ、あまりにはしたなかった。あんな情けない叫び、結婚初夜に見せる醜態ではなかった。
「ごめん、ごめん! 変化の術を使って緊張をほぐそうと思ってさ。あ、このカエルはオモチャだから」
「お、おもちゃ……」
げろげろと一定の間隔で泣き続けるカエルを一瞥し、私は安堵の息を深々と吐き出した。
「それにしても、すごい驚き方だったねぇ。想像以上の反応で僕の方がびっくりしちゃった。フフッ。思い出すだけで笑い転げちゃうよ。あははは!」
「……うぅ」
目尻に涙を浮かべて笑い転げる灼也様を見て、私は思わず頬を膨らませてしまった。我ながら子供じみた反応で、花嫁に相応しくない行為だったと思う。けれど、そんな私を見つめて灼也様はとても嬉しそうに目を細めていた。
「表情が柔らかくなったね。うん、緊張がほぐれたみたいで何よりだ」
あ。
灼也様が仰った言葉で私は自分の心の内がどこか軽くなっていることに気づき、ホッと胸を撫で下ろした。
「はい。今度こそ本物のいなり寿司をお食べ」
別のいなり寿司を取り分けた新しい小皿を私の前に差し出し、灼也様はにっこりと笑った。私はおっかなびっくりでいなり寿司を見つめ、箸の先でちょんちょんとつつき、本物であることを確かめた。
「……い、いただきます」
灼也様より先に食べることはどうなのか、と思いつつも促されてしまった以上、食べない方が失礼であると考え、私は震える箸で掴んだいなり寿司を口に運んだ。
「――っ!」
一口、噛み締めた瞬間、想像を遙かに超える美味しさに私は天に召されてしまった。
【完】
……っと、本当に昇天してしまいかねない美味しさに、私はしばし愕然としていた。
これまでの人生で私が食べていたものは本当に食べ物だったのか、藁屑でも貪っていたんじゃなかろうか、と全てを疑ってしまいたくなるほどに、いなり寿司の美味しさは群を抜いていた。
噛めば噛むほど、ふっわふわの油揚げのほのかな甘さと、酢飯の爽やかな酸味が口の中で優しく混ざり合って、美味しさがどんどん溢れていった。
いつまでも噛んでいたい。
この味を堪能し続けたい。
いっそのこと油揚げに包まれて眠りたい!
そう、常時なら考えもしないことを切に願うくらいの極上の味。口の中がひたすらに幸福で、呑み込むことで喉が喜び踊り、辿り着いた胃の中は美味礼賛のお祭り騒ぎだった。油揚げと酢飯、これほどに相性が良いものが他にあるだろうか? もはや、いなり寿司という存在は幸せな夫婦の縮図ではないのだろうか? と、舞い上がってしまうほどに。
……食べることがこんなに幸せで、愉しいことだったなんて、私は何も知らなかった。
私にとっての食事は飢えをしのぐための行為でしかなかったから。
生きるために残飯をかき集めて、無理矢理に栄養をしゃぶっていただけだったから。
追加のいなり寿司を箸で掴んだ瞬間、つぅーっと頬を温かい何かが伝うのを感じた。油揚げの汁だろうか、と拭い取ってみると……それは涙だった。
嘉村家にいた時、哀しくて涙を流したことはあった。痛くて涙を零したこともあった。辛くて泣きじゃくったこともあった。けど、こんな涙は初めてだった。
「だ、大丈夫かい?」
止めどなく涙を流す私にハンカチを差し出し、灼也様は掠れた声で心配してくれた。食事中に泣き出すなんて、さしもの灼也様でも想像していなかったのだろう。涙で滲んではっきりとは見えないが、灼也様の表情はくしゃくしゃになっていた。
「もしかして、いなり寿司は苦手だった? それとも味付けが合わなかったとか――」
「い、いえ……!」
これ以上、灼也様を困らせるわけにはいかない、と私は頭をぶんぶんと振り乱して否定した。そして、箸で掴んでいたいなり寿司を小皿にそっと置いて、私は小さく深呼吸を繰り返してから、声が震えないようにゆっくりと開口した。
「あまりにも美味しかったもので、思わず涙を流してしまいました」
受け取ったハンカチで涙を拭いて、私は口角を力いっぱい緩めて見せた。笑顔を作ってみたつもりだったが、灼也様の反応を見る限りどうやら失敗したようだ。こういう時、海理ちゃんなら上手く笑うんだろうな……。
「そうか」
灼也様は静かに頷き、椅子に座り直した。
「今更だけど、キミさ……聞いていた話とは随分違うね」
「え」
「縁談を行う前、ホホロギ様からは旧華族の末裔であることを誇りにしていて、高飛車で高慢ちきな令嬢だと聞いていたんだ。だけれど、今のキミはまるで違う」
狐のように細めた目でジッと見据えられて、私は心が凍てつくような感覚に陥った。いなり寿司の美味しさも、感動で流した涙も、奥へと沈んでしまっていた。ただ、今は己の無力さを呪うことしかできなかった。
失敗した。
偽物であることを見抜かれてしまった。
と、絶望しかけたところ灼也様は突然、朗らかな笑みを浮かべて、はにかむように開口した。
「でも、僕は今のキミの方がずっと好きだよ」
甘い声色で仰り、灼也様は私の顔に温かな視線を向けた。
「きっと、ホホロギ様の話が間違っていたんだろうさ。あの方もお年だからね、本当のキミを掴み損ねていたんじゃないかな」
偽物だと、バレていない?
灼也様は私を信じてくれたのか?
と、疑心暗鬼に陥りながらも、何故か左胸がギシギシと軋むように高鳴るのを感じていた。それは痛いような、心地良いような、奇妙な感覚だった。
「フフッ」
軽やかに笑い、灼也様は私から視線を逸らしていなり寿司を一つ口に放り込んだ。
「ホホロギ様は子作りをしろ、ってうるさいけど気にしなくていいからね」
いなり寿司の美味しさを堪能しているのだろう、顔をふにゃふにゃにして灼也様は仰った。
「縁談も結婚もいきなり過ぎて滅茶苦茶なんだからさ。これからはお互いに少しずつ知っていって、仲良くのんびりとやっていこう」
灼也様の笑顔を一瞥し、私はゆっくりと頷いた。
めまぐるしい一日だった。嘉村海理として、偽物の花嫁として、私は白妙の軍神と結婚したのだ。今日は何とかバレずに済んだけれど、目ざとい灼也様をいつまで欺き続けられるのだろうか……。
もし、偽物だとバレたら、海理ちゃんにも、家族にも、ホホロギ様にも、妖怪達にも――そして何よりも、灼也様に大きな迷惑をかけてしまう。
失望する灼也様の顔を脳内に思い浮かべてしまい、不安と罪悪感が一気に押し寄せて、胸がギュッと締め付けられるように苦しくなった。
偽物であることがバレて、ホホロギ様に罰せられて、嘉村家からも捨てられて、野垂れ死にする運命ならばそれでいい。何もかも失って破滅する分には気が楽だ。けれど、灼也様の優しさを踏みにじることだけは……イヤだ。
せめて、失望させないように。
欺き続けよう。
偽物の花嫁の役割を全うし続ければ、誰も悲しまないで済むのだから。灼也様も、海理ちゃんも、ホホロギ様も、妖怪達も、お父様もお母様も、みんなが幸せに丸く収まるのだ。だから、私は偽物であり続けよう。
真実が二人を分かつまで。