【5】 縁談
虚無僧の案内に従って大屋敷・隠形院に入ると、あれよあれよの内に豪奢な大広間に通された。緊張で頭がどうにかなってしまいそうだったが、心を水面に見立てて無になることで何とか粗相をすることなく過ごすことができていた。
古ぼけた実家の応接間と比べるのすら失礼なほど、大広間の作りは圧巻だった。天井がとんでもなく高くて掃除をする時は大変だろうなぁ、と呆けた感想を抱くくらいには。
座らされた黄金色の座布団のふかふかな柔らかさに仰天していると、虚無僧は静かに「私はここで失礼します」と言ってそそくさと去って行った。私が返事をしようとした時には姿が見えなくなっていた。
虚無僧は「我々妖怪」と常に言っていたが、あの編笠の向こうの素顔はどのようなものだったのだろう、とぼんやりと考えていると……突如として、正面から異様な雰囲気を感じて私は顔を上げた。
すると、大きな机を挟んだ対面には一人――一匹と言った方が正しいのだろうか?――の妖怪が堂々と鎮座していた。
「特異点の巫女よ。ようこそ、おいでなすった」
重低音を響かせて、その妖怪はゆったりとした所作で頭を下げた。緊張と混乱であたふたしながら私は半ば土下座のような挙動で挨拶を交えた。
私の前にいる妖怪は人間の男性より一回りも二回りも大きく、でっぷりと太った狸だった。実物を見たことはないけれど、たぶん、そんじょそこらのお相撲さんよりも大きいだろう。そんな狸が戦国武将さながらの陣羽織を纏い、悠然としているのだ。その存在感は尋常ではなかった。
「ワシは化け狸のホホロギ。妖怪の国の長老じゃ」
そう言って妖怪の長老、ホホロギ様は「ほほー!」と声を上げて笑った。
「近くで見ても変わらず、素晴らしい妖力じゃ。ひしひしと力強さを感じるぞ」
「……お、お褒めにあずかり、こ、光栄です……っ」
長老様相手でも欺けたことを安堵しつつ、私は心の内で更なる罪悪感を積み上げた。ここまでくると妖力に関しては心配はいらないようだ。後は、私自身がボロを出さなければ良いのだが……。
「此度は縁談を快く受け入れてくれたこと、誠に感謝しておる」
机の上に並べられたお茶と和菓子を一瞥し、ホホロギ様は少し哀しそうな顔で息を吐き出した。和菓子が好みのものではなかった、というわけではなさそうだ。
「……恥ずかしい話、明治維新を皮切りに妖怪達は弱体化をしておってな」
しょんぼりとした様相でホホロギ様は妖怪達の現状を吐露し始めた。ついさっきまでは堂々としていた存在感は影をひそめ、今や小さな子狸のように見えてしまうほどだった。
その姿がお父様と重なり、胸が痛くなった。
「妖怪の強さの源は人間からの信仰と畏怖じゃ。かつて人は妖怪を敬い、妖怪は人を助け、共に支え合って生きてきた。しかし、人の世の文明の発展と共に妖怪への思いは薄れていき……今となっては完全に忘れられてしまったのじゃ」
時代のうねりに置いてけぼりにされた、というのはまさに嘉村家と重なるものがあった。お父様も旧華族の末裔として、過去の栄華にすがることしかできなかったのだ。
「日に日に弱体化する我らにとって、特異点の巫女は未来への希望に他ならないのじゃ」
未来への希望。抽象的な言葉だが、そこに込められた意味を考えると血の気が引いてしまいそうだったので適度に聞き流すことにした。
「いきなり情けない話をして申し訳ないのう。……じゃが、心配なさらぬよう。妖怪達には英雄が存在するんじゃから!」
ぽん! と大きなおなかを叩いて太鼓のような音を鳴らし、ホホロギ様はにっこりと笑った。人のように笑う狸の姿は初めて見たが、中々どうして、奇妙ながらも可愛らしいものだった。
「噂をしておったら、来たようじゃの。ほほー! 主役の登場じゃ!」
はしゃぐホホロギ様の調子に合わせて、金箔がちりばめられた襖が勢いよく開け放たれた。そして、凜とした足取りで現れたのは――お父様が見せてくれた写真の殿方、九重灼也様だった。
「……待たせたな」
静寂を斬り裂く刃のような鋭い声色で仰って、灼也様は私の向かいの席に腰を下ろした。
「……九重灼也、である」
表情どころか素顔の一面も窺えない狐の仮面越しに私の顔を一瞥し、灼也様は静かに言葉を発した。ホホロギ様どころではない張り詰めた存在感に私は卒倒しそうになりながらも、何とか踏ん張って「か、かかかかかかむらかかかかかかいりです」と挨拶を返すことに成功した。……成功した、はずだ。
上機嫌なホホロギ様の隣で背筋を伸ばして身動ぎ一つしない灼也様を恐る恐る見上げ、私は生唾をごぬりと呑み込んだ。
風のない室内にも関わらず、ふわふわとそよぐ神秘的な白銀の髪。煌めく飾りが幾重にも施された純白の軍服。腰に携えているのは、真っ白な風貌に一際映える紅蓮の刀。そして、美しくもどこか恐ろしい幻想的な狐の仮面。
白妙の軍神。
九重灼也。
「ほほー! 海理様、改めて紹介をさせてもらおうぞ。この男こそが、我ら妖怪達の英雄にして希望、白妙の軍神じゃ!」
懐からド派手な金色の扇子を取り出し、ホホロギ様は快活に笑った。さっきまで情けなく縮こまって現状を嘆いていたというのに、この変貌。余程、灼也様を頼りにしているのだろう。
英雄にして希望。そんな立派なお方と縁談だなんて……と臆病風に吹かれそうになったところ、ホホロギ様がポポン! と愉しげなおなかの音を響かせてくれたおかげで、私はギリギリで踏みとどまることができた。
「灼也は九尾の狐の血を継ぎ、千変万化の妖術を使いこなす妖狐なのじゃ」
狐……。
私はなるべく目線が合わないように注意しながら、灼也様の顔をちらりと見つめた。狐の仮面の奥もまた、狐の顔なのだろうか。軍服の袖から覗く肌は人と同じで、ホホロギ様のような獣っぽさは感じないけれど。
「それに加えて、妖怪の国の千年以上続く歴史の中でダントツの妖力を持つ、最強の妖怪なんじゃ!」
「……恐悦至極」
ホホロギ様の朗らかな言葉に対し、灼也様は感情のこもらない声色で呟いた。
「ほほー! 謙遜するな、灼也よ。お主の、白妙の軍神伝説を一つ一つ語っていこうじゃないか。まずは……そうじゃのう、どこから語ろうか。戦国の無双神話か、江戸の守護伝説か、それとも近年の復活劇か……」
「……ホホロギ様、それはまた別の機会に」
灼也様は抑揚のない言葉遣いで仰って、ホホロギ様の言葉を遮った。そして、私の方をジッと見据えた。まるで小動物に狙いを定めた野狐の如く。……しかし、何故か恐怖は感じなかった。むしろ、どこか心が和らぐような気がした。
妖怪の英雄であり希望であり、人間とは比較できない長き時を生きている存在なのに、私は灼也様の仮面の奥から不思議な温もりを感じていた。
ただの錯覚か、勘違いか。……はたまた妖術の類いかもしれないが。
「灼也よ、どうじゃ?」
私のことをずっと見つめている灼也様に気がつき、ホホロギ様はニマニマと微笑んだ。
「彼女の力強い妖力たるや! 流石、特異点の巫女じゃろう? お主の花嫁に相応しいとワシは太鼓判を押すぞ」
そう言ってポン! とおなかを勢いよく叩いてホホロギ様は深々と頷いた。
「……」
灼也様は相変わらず微動だにすることなく、私のことをジーッと見つめていた。
ホホロギ様には偽物だとバレなかったが、最強の妖怪である灼也様を欺くことはできるのだろうか、と私はドギマギした。妖力で判断される以上、私にどうこうできることはない。ただ、海理ちゃんの妖力の強さを信じるしかないのだ。
ありとあらゆる暴力で痛めつけらて治療された日々の記憶が脳裏を過り、不快感と共に吐き気が込み上げた。
「……我に異論はありませぬ」
凜然と放った灼也様の言葉に私の吐き気は見事に吹き飛んでしまった。
異論はない、ということは、つまり騙し通せたのだ。私が特異点であると、嘉村海理であると! 安堵と罪悪感がぐちゃぐちゃに混ざり合い、いよいよ私の精神はてんてこ舞いになり果てていた。
妖怪の英雄・白妙の軍神さえも欺けるほど、海理ちゃんの妖力は圧倒的なのだ。と、改めて双子の妹と自分の差異を感じ取り、遙か昔に露と消えたはずの劣等感が頭をもたげた気がした。
「ほほーっ! では、縁談成立じゃな!」
ぽんぽこぽーん! と連続でおなかを叩いて景気の良い音を鳴らし、ホホロギ様は揚々と立ち上がった。
「……お主も、良いか」
「え?」
灼也様の質問の意図が理解できず、私はあわあわと戸惑った。言葉通り考えるのなら、自分と結婚しても大丈夫か、と聞いてくれているのだろう。しかし、その問いに対する答えは一つしか持ち合わせていない。私に選択肢はおろか、考える余地などないのだ。
嘉村家のために、海理ちゃんの野望のために、私に与えられた偽物の花嫁という役割を全うするだけなのだから。
こくり、と小さく頷いた私を見て灼也様は何も答えることなく、静かに立ち上がった。
「……ホホロギ様、では」
「すでに式の準備は進めておるぞ! さあさあ、気が変わらない内に早速!」
ホホロギ様に囃し立てられ、わけもわからず私も立ち上がった。改めて、灼也様を見上げると、純白の軍服姿のすらりとした長身の麗しさに息を呑んだ。海理ちゃんは仮面の奥の素顔はとんでもなく醜いに決まっていると言っていたが、私はそうは思わなかった。
たとえ、醜い顔だったとしても、このお方は美しい。と背反する思いを抱いてしまっていた。
なんて、これから生涯をかけて欺き続ける相手に何を考えているんだ、と私は自分の中のヘンテコな感情を押し潰した。
「ほほー! いざ、庭園へ向かおうぞ! 白妙の軍神と特異点の巫女の結婚式を盛大に行うのじゃ!」
ホホロギ様の発言に私は驚きつつ、もうどうにでもなれ、と覚悟を決め込んだ。
こんなにすんなりと縁談が終わるなんて思っていなかったし、色々な手順をすっ飛ばして結婚式を当日に行うなんて考えてもいなかった。けれど、これが妖怪流なのだろう、と無理矢理納得することにした。