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【2】 影絵

 廊下の掃除を終えて自室に戻った頃にはすっかり夜の闇が辺りを包んでいた。


 私の暮らす自室は、母屋から離れたところにぽつねんと建っている掘っ立て小屋だ。元々は倉庫だったのだが、経年劣化によって使い物にならなくなったのでお父様が私を押し込めておくのに丁度良いと判断したのだ。


 倉庫として使い物にならない建物なので当然、人が住むのには適していない。雨漏りは酷いし、建て付けはガタガタだし、風が吹くと尋常ではないほどに揺れるし……と。しかし、それでも、私にとってはただ一つの安寧の地であることに変わりはない。


 砂と泥でざらついた畳の上に腰を下ろし、布団代わりの新聞紙を膝にかけた。


 おんぼろ倉庫だった場所に畳が一枚だけ置かれている様は中々に滑稽だ。が、私の人生は見てくれを気にする余裕などないので、至極どうでもいい。


 ちなみに、この畳は十年ほど昔、私の生活を流石に見かねた叔母が「せめてこれくらいは」と一枚だけ恵んでくれたものだ。


 叔母は自らの生活が逼迫しているにも関わらず、私のことを気にかけてくれていた。叔母がくれた本のおかげで読み書きを学べたし、お母様に内緒で持って来てくれた食べ物のおかげで何度も飢えをしのぐことができた。心の底から、叔母には感謝している。


 そんな叔母は去年、肺を患ってぽっくりと亡くなってしまったが。


 ……。


 後ろ暗いことを考えていても余計に気が滅入るだけだ、と私は頭の中を空っぽにして畳に横たわった。電気が通っていない真っ暗な部屋ではやることは何もない。眠くなくても横になって時間が過ぎるのを待つしかないのだ。


 時間が過ぎて、どうなるというのだろう。


 明日になれば、何かが変わるのだろうか。


 無意味な疑念があぶくのように沸々と湧き上がり、心の水面が醜く揺らめいた。


 時折、どうしようもない不安が込み上げることがある。闇に包まれた部屋の中では耐えようがないほど、漠然とした焦燥感に駆られることがある。特に、海理ちゃんに酷く虐げられた時ほど強く、強く感じ入ってしまう。


 そういう時は特別に火を灯すことにしている。


 ……今日はまさに、そういう時だ。


 もそもそと立ち上がった私は暗闇の向こうに手を伸ばした。何度か手を泳がしている内に目当てのザラザラした感触を掴むと、自然と口角が緩んでしまった。


 それは、手のひらに収まる大きさのブリキの箱だ。無論、叔母がくれたものだ。


 あちこちがべこべこに凹んでいるブリキの箱の手触りを愉しんでいると、優しかった叔母の顔が脳裏に思い浮かんで妙に寂しくなった。ついぞ、お葬式は開かれなかったな、と感傷にしばらく浸った後、ブリキの蓋に指を沿わせた。


 ぎぎぎぎぎ……ぺこん! と、ひょうきんな音を鳴らして箱を開けた。


 中には、マッチ箱が一つと蝋燭が三本、それと古びた燭台が一つ入っていた。どれもこれも煤けていたり、ところどころ欠けていたり、とボロボロの有様だった。ゴミをこっそり漁って手に入れたものなのだから当然だが。


 くしゃくしゃのマッチ箱を壊さないように注意しながら開けて、折れたマッチ棒を一本摘まみ上げた。これで残りのマッチは二本。今月はもう最後かもしれない、と落胆しつつ私はマッチを擦って火を付けた。


 ぼうっ。と、暗闇の中に赤い火が咲いた。


 その光景が嬉しくて、思わず見蕩れてしまいそうになったが、短いマッチ棒の寿命を考慮して蝋燭に慌てて火を移した。


 燭台に刺した蝋燭の火がゆらゆらと揺れ、辺りをほんのりと照らす。


 暗闇の部屋で小さな灯りが揺らめく様相を幼い頃の私は怖くて仕方がなかった。まるで、幽霊でもおびき寄せてしまいそうだ、と怯えていた。しかし、今となってはすっかり慣れてしまっていた。むしろ、幽霊が来てくれた方が賑やかになって良いかもしれない、と思えるほどに。


「……ふふっ」


 自然と笑みがこぼれ、私は燭台を畳の上にそっと置いた。そうしてから灯りに背を向けて、右手の親指と中指と薬指をくっつけた。更に、人差し指と小指をピンと突き立てた。すると、蝋燭の灯りを受けて畳の上に一つの影ができた。それは、狐の形をしていた。


 影絵。


 灯りさえあれば他に道具はいらずにどこでもできる孤独な一人遊びだ。


 畳に生まれ落ちた影の狐は私の思うがままに動かすことができる。親指を離せば口をパクパクと動かすし、人差し指と小指を曲げれば耳が折れるし、手首を振ればキョロキョロと辺りを見回す。私が作って、私が生かす、私だけの命だ。


 左手も同じようにすれば、狐が二匹。じゃれ合わせたり、喧嘩させたり、会話をさせることもできてしまう。


「こんこん」


 喉をひそめて狐の鳴き声を真似て、畳の上に生きる影の狐達を眺めた。


 幼子のような遊びかもしれない。虚しい慰みかもしれない。でも、私にとっては穏やかな時間だった。不安が少しずつ溶けて、焦燥感がゆったりと薄れていき、ほんの僅かだとしても日常から離れることができるのだから。


 時には両手を合わせて蝶を羽ばたかせたり、かたつむりを闇に這わせたり、狼を吠えさせたり……叔母がくれた本に載っていた複雑な影絵をあくせくしながら再現してみたり、と愉しみは尽きることがない。


 たまに、目的もなく適当に指をくねらせて作るわけのわからない影も乙なものだ。この形は何に見えるだろう、と考えを巡らせるのも一興だ。


 こんこん。


 こんこん。


 蝋燭の火が消えるまでの間、私は影で象られた偽物の命たちと遊び戯れた。

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[一言] わあ……。 可哀想に……。
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