【1】 双子
旧華族の末裔、嘉村家の双子姉妹の姉として、私は誰にも望まれることなく生まれ落ちた。
旧華族といえば聞こえは良いけれど、実際は名前だけのハリボテだ。かつては華やかな暮らしを謳歌していたらしいが、今では半ば落ちぶれてしまっている。めくるめく速さで発展する大正時代のうねりに取り残された惨めさをひしひしと感じるほどに。
嘉村家の屋敷は私が幼い頃は麗しかった記憶がある。それはもう、華やかな帝都にそびえる立派なお屋敷だった。しかし、年を重ねるごとに古ぼけて、汚れて、荒んでいった。貧窮により使用人を雇えなくなった今や、かつての記憶が朧気になるくらいに見るも無惨なオンボロ屋敷と成り果てていた。
それでもなお、お父様は常に見栄を張って威張り散らし、お母様はかつての栄華を忘れられずに豪遊し、更に更に財政難に陥っていく……という負の循環が続いていた。
近い将来、嘉村家の生活が破綻するのは誰の目にも明らかだった。が、旧華族という誇りと驕りにすがるしかない家族は歯止めが効かなくなっていた。
もっとも、家の惨憺たる現状を嘆いたところで私には何の関係もないのだけれど。
すでに私の人生は破綻しているのだ。双子の姉として生まれた時から、ずっと。出来の良い妹と比べられて、家族全員から卑下されて、侮蔑されるだけ。使用人の代わりに馬車馬の如く家事雑務全般をこなしつつ、妹からの理不尽な被虐に耐える毎日。
それが私の人生。
その先に希望はなくて、その果てを考えることすら億劫な生涯。
今日も今日とて。
「樹理お姉様」
いつものように後ろ暗いことを考えながら、ズタボロの箒を駆使して廊下を掃除していたころ、背後から甘ったるい猫撫で声が聞こえてきた。夕刻を過ぎて女学校から帰ってきたのだろう、と声の主の正体を察して私はおずおずと振り返った。
「……おかえり、海理ちゃん」
喉を絞って発した私の声は弱々しくしゃがれていた。双子なのにこうも違うのか、と薄らと哀しくなった。
「相変わらず辛気くさい顔をしているわね」
私の顔を忌々しそうに睨みつけ、海理ちゃんは鼻を鳴らした。
双子の妹、海理ちゃんは鏡映しのように私と顔がそっくりだった。しかし、似ているのは顔の作りだけ。それ以外はまるで違っていた。表情も、雰囲気も、服装も、何もかもが私とは対照的だ。
絶賛没落中であることを感じさせない高貴な紫色の矢がすりの着物に、流行りの華やかな袴。綺麗に整えられた黒髪には大きなリボンが燦然と輝いている。お母様が捨てたボロ布を無理矢理に継ぎ合わせて作った歪な着物を着ている私とはまるで違う。
海理ちゃんが太陽だとしたら、私は太陽の光が落としたちっぽけな影だろう。
だから、お父様もお母様も海理ちゃんを大切にした。私を蔑ろにして、海理ちゃんだけを可愛がった。でも、それは当然だ。海理ちゃんは輝かしい太陽で、私は惨めな影なのだから。賢くて、溌剌としていて、出来の良い妹を優遇するのは当たり前だ。
……当たり前なのだ、と何度も何度も自分に言い聞かせた。
「その顔を見ていると気分が悪くなるわ。あたしとおんなじ顔なのに、陰鬱で気色が悪い。ほんと、家に閉じ込めておいて正解よ」
「……ご、ごめんなさい」
海理ちゃんにいつものように罵られ、私はいつものように震えた声で謝った。
女学校に通うことを許されている海理ちゃんに対し、私は屋敷の外に出ることすら禁じられている。出来の悪い娘を世間に露呈させたくないから、とお父様は言っていたが……実際のところは二人分の学費を払えないのが大きいのだろう。私を屋敷に閉じ込めておけば、学費も浮くし、使用人の代わりとしても使える、という一石二鳥だったのだ。
「さて、今日はどうしようかしら」
海理ちゃんは舌舐めずりをして、私の身体をまじまじと見つめた。……いつものが始まる、と私は覚悟を決めて唾を呑み込んだ。
「昨日はマッチ、一昨日はハサミ……その前はなんだったっけ? まぁ、いっか」
そう言って海理ちゃんは私の手から箒をひったくり、楽しそうに顔を歪めた。
「とりあえず、これにするわ」
海理ちゃんは思いっきり箒を振りかぶり、勢い任せに私の顔面に叩きつけた。
「うぐっ」
鋭い痛みと衝撃のせいで押し殺そうと思っていた息を漏らし、私は冷たい床に倒れ込んだ。想像以上に箒による殴打は痛く、顔中が痺れるような感覚に陥った。頬が切れているのか、血が薄く滲んでいる。
私の負傷などお構いなしに――いや、むしろ、負傷しているからこそ――海理ちゃんは箒を何度も何度も叩きつけた。ひたすら、顔面に。
「きゃははははっ」
海理ちゃんの哄笑が廊下にこだまする。屋敷にいるお母様には聞こえているはずだが、いつもの如く見て見ぬ振りをしているのだろう。
箒で顔面を悉く蹂躙されて、私は朦朧とした意識の中で昨日や一昨日よりかは断然マシだと考えていた。
「ふぅ、こんなところかしらね」
散々に箒を振り乱した後、海理ちゃんは肩で息をしながら満足そうに頷いた。そして、倒れている私の髪を引っ掴んで無理矢理に起き上がらせた。
「うっわぁ」
血だらけの私の顔を汚物を見るような視線で覗き込み、海理ちゃんはニタニタと笑った。自分とそっくりな顔が悪辣な表情を浮かべる異様は何度見てもおぞましいものだった。
「うん、うん、上出来。これだけ傷ができれば治し甲斐があるわ」
海理ちゃんは上ずった声を弾ませて、血にまみれることもいとわずに私の顔をわしゃわしゃとまさぐった。顔中を指が這う度に傷が刺激され、鈍痛が染みこんでいった。
「それじゃあ、お姉様。あたしの神通力で癒やしてあげる。光栄なことなんだから、しっかりと感謝しなさいよ」
「……う、ぁ……ありが、とう……ぅ」
私の顔を力いっぱい握りしめる手が突如、ぼんやりとした光を放ち始めた。それは手品や奇術の類ではなく、海理ちゃんが産まれながらにして持っている力だ。人の身を越えた異能。それを海理ちゃんは神通力と呼んでいる。
じんわりとした温かな心地良さが顔全体に溢れていき、あちこちの痛みが溶けるようにして薄れていった。そうして数瞬後には痛みはすっかりなくなり、流れ出ていた血も完全に止まっていた。
海理ちゃんの神通力により、顔中の傷が全て治療されたのだ。
「はい、完治したわよ。ふふふっ、傷痕一つ残さないで治せるなんて、流石はあたしの神通力ね」
うっとりとした声で海理ちゃんは微笑んだ。
物心がついた頃から、海理ちゃんは神通力に目覚めていた。それは、文明化と共に技術が発展した世の中でなお、理外の力だった。当然、そんな力を持っている人間は他にはいないし、お父様もお母様も海理ちゃんの力のことは世間には隠している。
この神通力こそが、海理ちゃんが私に暴力を振るう理由なのだ。決して、ただの嗜虐趣味ではない……はず。
幼い頃の海理ちゃんの神通力は今より遙かに弱いもので、ちょっとした引っ掻き傷をほんの僅か治せる程度のものだった。だが、海理ちゃんは神通力を使いこなすために血の滲むような努力をし、血まみれの鍛錬を積んだ。私の身体を実験体として。
「私はこの神通力で成り上がるわ。こんな没落した家なんて捨てて、自らの手で幸せを掴んでやるんだから」
この世は弱肉強食、いつの時代も戦国乱世と変わらない。と、ことあるごとに海理ちゃんは言っていた。
成り上がるためには神通力を使いこなす必要がある。だから私の身体を散々に傷つけ、ひたすら治療し続けた。どんな怪我でも完全に治せるように。
殴って、治す。刺して、治す。切って、治す。潰して、治す。炙って、治す。折って、治す。砕いて、治す。抉って、治す。裂いて、治す。嬲って、嬲って、嬲って……。ひたすらに繰り返し。
そんな毎日。
これが私の人生。
「……」
血にまみれた手をハンカチで拭っている海理ちゃんを見上げ、私は静かに息を吐き出した。今日はいつもより痛くはなかった、と安堵しかけた矢先、海理ちゃんは嬉々とした表情で開口した。
「時間はたっぷりあることだし、次はこれを使うわ」
「え」
海理ちゃんが取り出したのはお母様の裁縫箱だった。それはもう、人体を痛めつけようと思えばありとあらゆる方法が詰まっているに違いない悪夢の箱だった。
今日はこれでおしまいだと油断していたせいで、私の心は大きく揺らいでいた。血の気が引き、被虐に慣れて麻痺していたはずの感情がざわめいてしまった。
いっそのこと、泣き叫んで逃げ出したい。でも、そんなことをしても無駄なのはわかりきっていた。誰も助けてくれるはずがない。それどころか、誰も彼もが海理ちゃんの味方になって余計に酷い目に合うことになるだろう。
だったら、受け入れる他はない。
「どれから使おっかなー」
無邪気な子供のような表情で裁縫箱を漁る海理ちゃんを一瞥し、私はそっと目を閉じた。
海理ちゃんに暴力を振るわれ、お父様とお母様に罵詈雑言をぶつけられる日々の中、私は一つの技を編み出した。神通力のような理外の力ではないけれど、何の変哲もない普通のことだけれど。心がひしゃげてどうにかなってしまいそうな時はいつもこれに頼っていた。
それは、心を無にすること。
壊れてしまう前に心を空っぽにすることで痛みや苦しみを全て受け流して耐え忍ぶ、私の唯一にして無二の特技だ。耐えさえすれば、海理ちゃんの暴力はやり過ごせる。どうせ治療されることに変わりはないのだから。
くちゃり、くちゃり、と聞いたことのない不快な音をたてる海理ちゃんから意識を逸らして、私は自分の心を水面に見立てた。
頭の中に広がる水面は果てしなく、澄み切っているにも関わらず底が見えない深さをしていた。今日も今日とて、水面は乱れて無数の波紋が溢れている。酷いことをされている時、悲しみに満ちている時ほど心の水面は波紋まみれになっているのだ。
だからこそ、その波紋を一つ一つ鎮めることに集中する。原因を追及して問題を解決するなんて関係なく、ただ、ひたすらに波紋が消えることだけを考える。一つ、一つ、じっくりと。
波紋は連鎖するので一筋縄では収まらない。けれど、それでも、懸命に考え続ける。それだけに集中する。
そうしていく内に暴力による痛みも、罵詈雑言による苦しさも、薄皮一枚ずつ剥がれるように僅かながらマシになっていく。その繰り返し。現実逃避の繰り返し。
やがて、心の水面には波紋一つなくなり、しんと静まりかえっている頃には感情が麻痺している。頭の中がぼーっとして、全身から感覚がなくなった錯覚に陥って、何もかもがどうでもよくなる。
そして気づいた時には事が済んでいる。
「……」
いつの間にか海理ちゃんがいなくなっていることに気づき、私はのそのそと起き上がった。掃除したばかりの廊下が赤黒く染まっているのを見渡して、安堵なのか絶望なのか判別がつかない息を吐き出した。