私小説
今日の自分が目を開けた。
その日も当たり障りのない朝で、昨日の夕食の残りを平らげながら携帯のリマインダーを確認する。7:30出勤、途中やりの書類があるのでそれを片付ける。部署で使っている事務用品が足りないので総務に申請する。半ドンで上がったらスーパーで食品を買っておく、トイレットペーパーを忘れないこと。ニュースは先週の国会であったらしい失言とやらをまだ取り上げている。ストッキングをはこうとしたら足を取られて転びかけた。そろそろ部屋の片付けもしなくては。
電車で三十分、歩いて五分。タイムカードを押して席に着いたらお茶が入っていた。当番表。明日のお茶くみ当番は自分。一本早い電車で来ること、メモしておく。やや遅れてきた隣席の同僚に挨拶をしてPCをつける。ご丁寧にデスクトップに今日仕上げるものが付箋で張られていた。そんなに今日の自分は信用がないのか。ありがたく見させてもらう。
別段繁忙期でもないこのごろは本当に気の抜けたもので机に備え付けられた電話もピクリともせず、そこかしこでキーボードをたたく音がするほかは主任や課長が何事か相談している声が聞こえるくらいだ。そろそろ帰る時間も近い。目を合わせないようにしよう。…視線を感じる。
書き終わった日報を主任に持っていく。「今日は半日ですので、お先に失礼します。」何か言われる前ににっこり笑って一礼。明日の自分よ、頑張ってくれ。タイムカードを切った。
家の近くの駅はほどほどに大きな総合駅だったので、入っているハンバーガーショップで昼食をすます。のんびりレシピを検索して夕食のメニューでも考える。部屋も片づけたいしパパっと作れるものがいい。カレーでいいか。
「あら、今日早いのねえ。」
「今日半日だったんですよ。」
ほほえみながら話しかけてきた初老の女性に、曖昧に笑って返す。この人は誰だったろう。
「またパン買いに来てね。今度新作出すのよ、食べてもらいたいわ。」
「ゴミ袋も買っておかなきゃ。」
帰り道、アパートと同じ通りに小さなパン屋があった。あの立地なら確かに自分はよく買いに行くことだろう。階段を上がって玄関扉にカギを指す。ガチャリと仰々しい音が鳴る。窓のない廊下は真っ暗だ。手探りで壁のスイッチを探して明かりをつける。
「こんなところまではみ出してたっけ。」
廊下にも、居間にも、寝室にも自分が折り重なって倒れている。一番上にある小奇麗な自分が多分昨日の自分だろう。むんずとつかみ上げて居間の椅子に座らせた。朝に自分が座った椅子と向かい合わせになる位置。
カレーを煮込む傍ら、自分たちを片付ける。外から見えてしまわないように青いビニール袋と市の可燃ごみの袋を二枚重ねにして詰め込む。到底一日では終わらなさそうだ。リマインダーに書いておこう。
カーテンも閉め切った薄暗い部屋で昨日の自分と向かい合って夕食を食べる。少しも動かないそれに、今日のことをぽつりぽつり話して、それで終わり。静かさが気になってテレビをつけたらドラマ。家族団らん。寂しいともうらやましいとも思えずにつけたままにする。
もう夜だ。だんだんと眠くなってきた。風呂に入る必要はない。クローゼットから明日の自分を取り出して、ベッドに乗せてやる。これで今日の仕事は終わり。強くなる眠気に逆らわず過去の自分たちの上にどさりと横たわる。おやすみなさい。
今日の自分が目を開けた。
「私小説2」
音楽家が歌に言葉にならないものを託すなら、小説家は言葉に何を託せるだろうか。
20歳、大学3年生の秋。執拗なまでにカリキュラムを埋め尽くしていた実習の文字が減り、入れ替わりに研究室と就職セミナーが徒党を組んで押し寄せてきた。とは言え上級生のそのまた上級生から受け継がれてきた実験を引き継ぐやる気に乏しい一学生にとって、散々レポートに忙殺されてきた一学生にとって、この時期は久しぶりに甘受する空白の時間でもあった。
そうして1人でぼんやり過ごすという贅沢をしている中で、この部屋には何もないことに気が付いてしまった。
集めていたCDも嵩張るからと実家に置いて、服も上着がいくらか出ているほかは仕舞われてしまって見えない。トロフィーも、賞状も、アルバムも、持て余すだけだと置いてきてしまった。申し訳程度にインテリアがいくらか落ち着かない面持ちで置かれている。
そんな空虚な箱の中に、まだ何者になるかも決められていない私だけがいる。
子供のままでいられる時間はもうすぐに終わってしまう。音楽が好きなら理屈もなくCDもスコアも持ち込めばよかったのだ。
五畳一間に窓があるだけのこの部屋を見上げる。四角い小さな天井が目に入ってひどく閉塞感がする。この独房のような部屋で生きて、死んでも何かを残すことはないのだ。もし何十年もたってそのころに新しい人間関係を築いていたとしても、今のこの私を知り、悼む人などどこにもいないのだ。
そしてこの私の感傷を大人になってしまった自分はそんなこともあったと思い出の一つにしてしまって、いとも簡単に片付けるのだ。
寂しいという一言に当てはめてしまうには、切り捨てる場所があまりにも多かった。
「私小説3」
宇宙が広がるよりも早く進めればいつかは宇宙の外側に行けるだろうか。
夢を見ることはできるだろうか。これは怨念だ。幸せになってみたいの一言が言えずに歪んでしまった欲望だ。鬱屈した。挫折した。自分は天才ではなかった。努力して努力して努力してそれでも勝てなかった。期待に添うことができなかった。自分が平凡な人間だと認めるのが怖かった。まるで天才のように言われていたから、そうでない自分を許すやりかたがわからなかった。自分に価値などないのだと知っていた。夢を見ていたかった。胸にぽっかり空いた傷に見合う言葉を見つけられなかった。
地球は引力に銀河は太陽にひかれているけれどどこまで行けば自由になれるだろう。
寂しいと言うことができれば楽になれただろうか。誰に言えばいいだろう。助けを求めたくても呼び縋る名前を持っていなかった。マンションの屋上に入ってみても電気コードの輪に首を通してみても愛されていたころに買ってもらった子供用包丁を手に持っても恐怖に立ちすくむしかできなかった自分をどうすれば救えただろう。
いつかこの宇宙のすべてに人が住んで科学の光に照らされたとしたら日陰者はどこに追いやられたらいいだろう。