第7話:憧れの香り
翌々日の放課後。マリアはパトリオットの対応を後輩たちに任せ、中庭の噴水脇のベンチで本を読んでいた。
少し離れたところからは、スレイン辺境伯令嬢とリュエミール・ランドアーネストがのんびりと会話しているのが聞こえてくる。
「……そうなの。それにしても、ランドアーネストさんのお話は新鮮で面白いわ。そういうところにパトリオット殿下も惹かれたのかしら?」
「え? えへへ、いえ、あたしなんて、そんな……」
「もう、謙遜なさって。お使いの香水も、とてもセンスがいいわね。アルカシスのものでしょう、殿下からのプレゼントですの?」
マリアも会ってみて驚いたのだが、スレイン辺境伯令嬢は、下手な騎士見習いより余程威圧感のある、いわば武闘派令嬢であった。
険しい山岳にあるルヤ王国の貴族、しかも辺境伯家の令嬢ともなると、求められるのは儚さよりも強さなのだという。
事前の打ち合わせ通り、中庭で偶然を装って話しかけたスレイン辺境伯令嬢に対し、恐怖心からか、あるいはハンカチを拾ってもらった恩を感じているのか、ぷるぷると震えながらリュエミールは気丈に微笑んでいた。
しかし、自然な流れで香水の出どころを尋ねられると、彼女の声に動揺が混じった。
「そう……ですね。確かに、わたしはアルカシスの香水を使ってます」
あたし、ではなく、わたし、という言葉に、マリアはおやと思った。
「けど、あの、これは……。――えへへ、ごめんなさい、つまらない答えですけど、この香水は、パトリオット様にもらったんじゃないんです。自分で買ったんですよ」
「ご自分で?」
意外な言葉に、スレイン辺境伯令嬢の表情にも素の驚きが表れた。思わぬ事実に眉間に皺が寄ったマリアは、一言一句聞き漏らすまいと決意を改める。
「はい。あたし、おとうさまに引き取られる前は、普通に平民で……学校なんて行かないで働いてたから、そこでお給料貯めて買ったんです。もったいなくて使ってなかったんですけど、この学園に来たし、せっかくだから使えるうちにって」
「そう……。でも、それにしても、お高いでしょう」
ええ、とリュエミールは微笑んだ。そして何かを続けようとしたが、
「エミ!」
駆け寄ってきた男子生徒の存在を認めると、顔いっぱいに笑顔を浮かべて立ち上がった。
「ローくん!」
そのまま天真爛漫というべき明るい声でその名を呼ぶと、スレイン辺境伯令嬢に向かって、柔らかく目を細めた。
「じゃあ、ごめんなさい。あたし、行きますね!」
……あ、ハンカチ拾ってくれてありがとうございました! という声だけを残して、リュエミール・ランドアーネストは風のように中庭から去っていった。
***
ちぐはぐな子ね。
そんなことを思いつつ、ブルーブロンドの髪を靡かせながらマリアは部室へと向かう。スレイン辺境伯令嬢には、お礼を兼ねてお菓子とエレナのサインを渡しておいた。彼女もエレナのファンだったらしい……。
部室の扉を開けると、未だに不機嫌な様子のパトリオットが居座っていた。
「だから、何度言ったら分かる? ジャルトアミィが無実なはずはないだろう。他の生徒が虚偽の証言をしているのか、いや、あいつが何もしていないわけがない。どうせ、卑怯にもこっそりやっているんだろう。なんといっても、俺の寵愛がエミに移って困るのはジャルトアミィなのだから」
さすが王太子と言うべきか、王妃譲りのエメラルドグリーンの髪は神秘的かつ華やか、両親のいいとこ取りをした顔立ちも凛々しく美しい。その表情だけを見ていると、なぜだかもっともらしいことを言っているように見える……それが残念王子こと、パトリオット・ルルノールン・バルジェットの姿であった。
きらびやかなオーラがいっそ哀れな王太子に、ハルノレイムが冷たく答える。
「残念ですが、殿下のおっしゃっていることは推測に過ぎません。我々は、ロングータス公爵家と利害が対立する家の方や、あるいは留学生など、彼女に忖度する理由のない方からも証言を集めております。また、ロングータス公爵ならびにご令嬢本人からも、殿下との婚約に執着しているわけではないと伺っております」
「それこそ強がりかもしれないだろう。裏でエミに何かしているかもしれない」
「いえ」
言葉を引き継いだのはミッチェラだった。気弱なためにカウンター対応は少なかった彼女だが、王太子の馬鹿ぶりにやっと勇気が出たのだという。
「聞き込みをしましたところ、ランドアーネストさんは、常に殿下のご側近のどなたかとご一緒だそうです。体育やお手洗いのときなども、クラスメイトのテリーローク男爵令息が騎士よろしく更衣室やお手洗いの前に必ず待機しているとか……。正直言って、女子生徒の皆様はかなり不快そうなご様子でしたわ」
薔薇色の丸い目で、パトリオットをじっとり見つめるミッチェラ。その視線にたじろいだパトリオットは、ふと静かに扉の前に立っていたマリアの気配に気づいたようで、ぐるりと振り返って彼女を見た。
「……お前が部長だったな?」
「ええ、左様ですわ、殿下」
切れ長の目も声も凪いだまま、マリアは頷いた。
「証拠とやらも、お前が集めているのか?」
「……ワタシが主導してはいますが、実際に動くのは部員全員でやっておりますの」
「ふん、伯爵令嬢如きが偉そうに。いや、お前は隠しているかもしれないが、俺は知っているぞ。いくら証拠を集めたとしても、授業に来なかったお前は卒業できないんだろう? それではパーティーにも出られまい。どうやって俺を止めるつもりだったんだ?」
ゆらりと立ち上がったパトリオットが、マリアにじりじりと近寄る。机を乗り越えて飛び出そうとしていたハルノレイムだったが、思いもよらない王太子の言葉に、鳶色の目は凍り付いたように見開かれる。
「……隠しているだなんて、お戯れを。殿下とは同じ学年ではありませんか。殿下とワタシは、今年はクラスまで同じですよ? ええ、4組です。不本意ではありますが、ワタシは試験も受けておりませんから、仕方ありませんね」
クラス分けは成績順で決まる。暗に馬鹿と言われたパトリオットは、形の良い唇を歪め、何事か続けようとしたが、それを遮る声があった。
「パトリオット様! こんなところにいたんですね! もう、パトリオット様ったら、あたし、ずーっと探してたんですよ」
マリアが体を預けていた扉の隙間から、ひょいとリュエミールが顔を覗かせる。
「え、エミ」
「パトリオット様、今日はお忍びでカフェに行くって約束でしたよね? 忘れてたんですか?」
透き通る湖のような色の目を潤ませ、ぷうっと頬を膨らませる恋人の姿に、パトリオットはハッとしたように後退る。そしてマリアを一瞥し、
「いや、思ったより時間がかかってしまっただけだ。君との約束を忘れるわけないだろう? さあ、行こう」
「うふふ、よかったです! じゃあ、あたし、髪の毛をちょっと直してから行きますね。先に玄関で待っててください。もう、走って探したんですから!」
手を伸ばしたパトリオットをするりと躱し、リュエミールが甘く笑う。ベイビーブルーの髪を揺らしてトイレに駆け込んだ彼女を見て、先程の悪態はどこへやら、だらしなく表情を緩ませたパトリオットも廊下に消えていった。
「……ったく、なんだ、あのアホウは」
沈黙が落ちた部室に、エレナの舌打ちが響く。
「本当……そうですよね」
しかし、返事を期待していなかったエレナは、帰ってきた声にギョッとその方向を見る。
「あなた……」
「……先程は失礼いたしました。改めて名乗るまでもございませんが、わたくし、リュエミール・ランドアーネストと申します」
日頃の振る舞いは消え失せ、彼女がそう言って披露したのは見事なカーテシーだった。
***
幽霊でも見たかのような表情で、ジェリカがリュエミールにお茶とお菓子を供す。
遠慮がちにカップに口をつけ、彼女は2、3度瞬きをした。
「どこからお話したらいいですか?」
「そうね……せっかくだから、まず香水の話を聞きたいわ。アルカシスの香水を、どうやってあなたが買ったのか」
ゆったり微笑んだマリアに、リュエミールも微笑を返した。
「中庭にいらっしゃった方ですね。婚約破棄部の部長とは知らなくて……。そうですね、わたくしは、ランドアーネスト子爵令嬢……お嬢様の乳姉妹なのです。母は平民ですが、夫人とのご縁があったと聞いております」
「そうだったのね」
「はい。7歳までお嬢様の遊び相手として育ちましたので、貴族の作法についても学ばせていただきました。それを生かして、憧れだったアルカシスに就職したのです。もっとも、実際に貴族のお客様の接客をするのではなく、従者の方のお相手をしたり、お客様がご覧になるスペースの掃除をするような店員です。ただ、完全に裏方の店員と違って、お客様の視界に入ることもあるので、立ち居振る舞いがそれなりでないといけないのです」
「貴族のおうちの使用人でも、お客様の目に入るようなところで仕事をする人の方が、求められるレベルも高いし、お給料もいいですもんねー」
気を取り直したのか、うんうんと頷くジェリカ。
「それで……店頭には、お客様に試していただくためのサンプルの小さな瓶が置いてありまして、それも定期的に交換するのです。小さな瓶ですし、開けてから時間も経っていますから、お客様には売れません。ということで、従業員は割安でそれを購入することができるようになっています」
「なるほど。貯めたお金で、その試用のものを買ったんですね」
そうです、と納得した様子のハルノレイムに彼女は頷く。
「でも、どうしてロングータス公爵令嬢と同じ「夕闇の薔薇」の香りを?」
「それは……」
問われると、リュエミールは目を閉じた。見事にカールした長いまつ毛に、ミッチェラが羨ましそうな眼差しを送る。
「お嬢様のため、でしょうか」