第2話:45年前の断罪劇
目の前で、国王が真っ青になっている。輝く額からは汗が滲み、肩は小刻みに震えている。
その様子を見たマリアは、思った。貴族、ましてや王族であれば、容易に本心を悟らせるはずもない。……つまり、国王は、わざと大袈裟に動揺してみせているのだ、と。
「残暑の日差しがまだまだ厳しく照りつけて参りますが、その日の光に輝く王城の威厳に、改めて王室の、陛下の、そしてキャンテルイムの尊さを思い知りました今日この日にございます。さて、本日は、御子息パトリオット・ルルノールン・バルジェット殿下からの婚約破棄のご依頼を受け、婚約破棄部部長マリア・アンバートと部員ハルノレイム・クロイスが御前にまかり越した次第にございます」
そのため、特に国王の震えや汗には注目せず、なめらかに挨拶をした。2人は跪いて頭を垂れ、返答を待つ。
「……いや、なに。よくぞ参ったな、楽にせよ」
顔を上げたマリアとハルノレイム。国王はまだ冷や汗をかいている。
「我が息子、パトリオットが婚約破棄を依頼したというのは真か? ……む、済まぬ。真であるからこそ、そなたらがやって来たのであるからな。先触れより預かった文書は読んだが、事態がよく飲み込めなんだ。正当な関係もない子爵令嬢への嫌がらせを理由に婚約破棄とは、あまりに頓珍漢なことゆえ……」
「……恐れながら、そちらの書面にあることが全てにございます。パトリオット殿下は真剣に婚約破棄をご所望でいらっしゃるとのこと。それゆえ、創部と共に定められた部則に従い、まずは破棄申請人である殿下のお父上――陛下にご許可を頂きに参りました」
頓珍漢、とパトリオットのことを評しつつ、即座に息子を切り捨てる判断を下すほどには怒っていないらしい。マリアは内心のうきうきを隠し、パトリオットにもそうしたように穏やかな声で語りを再開した。横からハルノレイムの心配している気配を感じるが、それはそれである。
「む。許可、とな?」
「はい。パトリオット殿下の仰ることが正しかった場合。つまり、ご婚約者たるジャルトアミィ・ロングータス公爵令嬢が、王太子妃として相応しくないと判定された場合には、我らの裁量の元、大々的たる婚約の「破棄」を行うことをお許し頂きたいのです」
ここで初めて、国王の震えが止まった。
マリアに注がれていた不安げな視線が、見定めるような冷たいものへと変わる。ところが、突き刺さる威圧感にもマリアは動じなかった。
いつもと変わらず模範的な笑顔を浮かべ、膝を突いた姿勢で不安定な身体も揺らがない。
一介の伯爵令嬢とは思えない図太さを見せるマリアに、ハルノレイムはこっそりと驚嘆の視線を送った。
「大々的な婚約破棄だと? その意味、分かって言っておるのだろうな。家と家の間で結びし契約を公衆の面前で破棄などと、愚の骨頂。特に、婚約ともなれば相手に傷がつくことは避けられぬ。パトリオットの婚約者はロングータス公爵令嬢ぞ!」
「もちろん存じ上げております。ですから、あくまで「相手に婚約破棄をするに足る瑕疵があった場合」でございます。過去には、話し合いでの婚約解消、あるいは元の鞘に収まった方々もいらっしゃるのですよ? ……そうですわね、結局は婚約者側の申し出で婚約がなくなった場合もございましたけれど」
くすっと微笑んで、マリアは首を傾げた。
***
「あーあ。エレナ先輩、私も行く意味はあったのでしょうか? マリア部長が全部やってくれたのですけれども……」
「ほら、マリア。ハルくんが拗ねているわ?」
御前を去り、マリアとハルノレイムは部室に戻ってきていた。エレナとジェリカが残っていると聞いたからである。
「違います、拗ねては……ない! ないですってば」
燻した銀のような髪が凛々しい印象を与えるハルノレイムであったが、姉御肌のエレナにとってはついからかいたくなる存在らしい。
ジェリカの淹れたお茶で喉を潤し、マリアは切れ長の目をほんの少しだけ見開いて、頬を膨らませた後輩を見る。
「そうね、ごめんなさい。だけど、あの場では部長たるワタシが話すべきだと思ったのよ。ハルノレイムは公爵令息だし、陛下とお話しするのはワタシより適任とも思ったけれど……。でも、あなたが実際に保護者のところに行くのは初めてでしょう? ワタシたちは3年生だし、背中を見せるのもいいかなって気がしたのよ」
彼女が首をわずかに傾げただけで、長いブルーブロンドの髪は大きく揺れる。仄かに石鹸の香りが漂い、ハルノレイムはあわあわと首を振った。
「そうですよね。部長、とてもかっこよかったですから……。私こそ、気を遣わせてしまって申し訳ありません」
「んー。マリアの言うことも一理あるか。私たちがいるのもあと半年くらいだから……マリアは先輩方も認めた人材だし、見て学んでくれたらいいと思うわ。それに、今回のはとても面白い案件よ。アミィは、あのアホウなんかとは釣り合わない。盛大に別れた方がいいね」
鼻を鳴らしたエレナにお茶のおかわりを注ぎながら、思い出したようにジェリカが言う。
「ところでー、なんですけど、先輩方。陛下のご様子を聞く限り、陛下は婚約破棄部の由来をご存知ない様子なんですねー?」
「あ……それは私も気になりました。学園の中では皆知っている様子でしたし、ユールハルトの言うところでは、パールバディア公国でもそれなりに知られているのですよね? それなのに、なぜ、陛下はご存知でなかったのでしょう」
「ジェリカも鋭いね。そうね、今更言うのも馬鹿らしいほど、婚約破棄部創部のきっかけは広く知られている。広く知られている、ということを改めて言うのだって間抜けなくらい。……しかし、これはあくまで私たちも先輩から聞いた推測に過ぎないけれどね、恐らく、伝えていないんだろうね」
セピアの髪を引き立てる花飾りを弄び、エレナは苦笑いを浮かべた。キザな振る舞いが板についている彼女だが、それは彼女に心酔している婚約者から贈られたものであった。
「伝えていない? どういうことです、学園側が王家には秘密にしているということですか?」
「いいえ、違う」
肩をすくめたエレナに代わり、マリアが静かに続ける。
「ときに……ジェリカ、我ら婚約破棄部の役割とはなにかしら?」
「んっ。それは、国王の認めた家と家の契約たる婚約を破棄しようとした者を思いとどまらせ、己の過ちに気づかせること。――そして、それでも破棄を強行した愚か者を、スムーズに排除すること……」
「そうよ。では、それをなぜ陛下はご存知でないのか?」
幾度目かの問いかけ。わずかに前のめりになる後輩たちに向けて、マリアは愉悦とも嘲りともつかぬ笑みを向けた。
「恐らく、先王――ジャックス・ディビー・イズバード様が伝えなかったのでしょう。弟のしでかしたことを、ね」
***
先王であるジャックス・ディビー・イズバードには、年子の弟がいた。その名は、マークレッド・ロイ。
貴族の例に漏れず、マークレッドも幼い頃から伯爵令嬢と婚約を結んでいた。
ところが――。
「ビウィアン・ネリー。貴様との婚約は我が人生の汚点である! 愛しいジェニへ働いた狼藉、見逃すことはできぬ。よいか、この婚約は破棄だ!」
45年前。
卒業式の後に行われるパーティーで、当時2年生だったマークレッドが高らかに婚約破棄を宣言したのである。
理由は、婚約者による騎士息女への嫌がらせ、更には殺人未遂であるという。
場を温めていた1年生と2年生が、突然の出来事に大きくざわめく。
「……し、証拠はございますの?」
「証拠だと? そんなものが必要か? キャンテルイムの王子たる俺の見染めた、このジェニが言っているんだ。ジェニは純真な娘。それで充分だろう」
この時、主役である卒業生らは制服から各々のドレスや礼服に着替えている最中で、まだ入場していなかった。静まり返ったホールから飛び出した教師がジャックスを呼び、彼が駆けつけた頃には手遅れだった。
「なぜ、このようなことを……」
「え。兄上、なぜって……罪を認めぬビウィアンを断罪し、この婚約を破棄するのには、皆の前が最も適しているでしょう? ふん、結局、この悪女は己の過ちを認めませんでしたがね。兄上、このビウィアンは悪辣なる女。それに比べ、ジェニは清らかで優しい娘です。彼女こそ王子妃に相応しい――」
黙れ。
そう一喝し、ジャックスはホールの中心へと歩み寄る。
令嬢として、人間としてのプライドを傷つけられ、崩れ落ちたままの伯爵令嬢。
讒言に惑わされ、考えなしに突き進んだ愚かなる弟。
このところ普通科の校舎でよく見かけていた、しかし従者科の生徒であるはずの騎士息女。
震える令嬢を助け起こし、遅れて駆けつけた自らの婚約者に託し。
呆然としていた教師を呼び寄せ、ジャックスにしがみつく騎士息女を連れて行くよう、そして父王を呼ぶよう命じ。
「ふ……ごっ!」
ジャックスは、事態の急転についていけない様子の弟の腹に、拳を打ち込んだ。