第1話:王太子は婚約破棄したい
大陸東部に位置する王国、キャンテルイム。
その王都郊外には、1つの学園がある。普通科と従者科、騎士科に分かれており、15歳以上の貴族・騎士階級の子女が通う王立学園である。
近隣国からの留学生も多くやってきており、学園は若者の活気に溢れていた。
***
豊かな残響を従え、王立学園の鐘が鳴る。
第5限の終了、つまり放課後の訪れを告げる鐘だ。あるクラスでは授業が長引き、あるクラスからは生徒がぞろぞろと出て行く。
そんな中……この王立学園の生徒に似つかわしくない行動を取る、ある男子生徒がいた。エメラルド色の髪を持つその美青年は、ネクタイを雑に緩めながら、ダッシュ、ひたすらダッシュしている。
彼のクラスである普通科3年4組から飛び出し、肩で息をしながらたどり着いたのは、別棟にある一室だった。
「婚約破棄部! 俺の婚約を破棄してくれ!」
「あら、こんにちは、殿下」
バーンと扉を開き、この国の王太子――パトリオット・ルルノールン・バルジェットは、そう叫んだ。
***
王立学園婚約破棄部。
不穏な響きのする名称だが、剣術部や馬術部、あるいは刺繍部などと同じく、立派な公式クラブとして認められている。
その活動内容は、ずばりそのまま、婚約破棄をお膳立てするというもの。無論、頼まれればほいほい婚約破棄……ということではない。婚約破棄を希望した者が、婚約解消でなく「破棄」に足るという証拠ならびに周囲の同意を得、破棄が妥当と判断された場合――その場合においてのみ、婚約破棄部の完全アシストのもと、公衆の面前で婚約破棄を行えるという触れ込みであった。
この婚約破棄部、なんと今年で創部40年。学園の歴史と比べればその年数は短いが、大小様々な実績を上げ、部員は一目置かれるような部活である。
その需要というのは――
***
「それで、パトリオット殿下。婚約破棄をご所望というのは、本気ですの?」
「もちろんだ! 皆も知っているだろうが、俺の婚約者のジャルトアミィ・ロングータス公爵令嬢。あやつは王妃に相応しくない! 俺が気にかけているからと、エミを虐げているのだ。エミのことを、王太子に色目を使う毒婦と罵り、ドレスが流行遅れだと罵り……心優しいエミは何も俺に言ってこないが、俺は知っている! 彼女と同じクラスのローバーン――俺の側近に聞いたのだ。エミがこっそり打ち明けてくれたと……」
婚約破棄部部長の3年生、マリア・アンバートは、対面ブースに改装された教室後部に移り、王太子の主張を聞いていた。
「ところで、エミというのはどなたです? キャンテルイムの令嬢でしょうか……家名を伺っても?」
「ああ、リュエミール・ランドアーネスト子爵令嬢だ。リュエミールというと長いから、気軽にエミと呼んでくれと言われてな。その気さくさも愛らしいのだ。しかし、俺が卒業しては、エミのことを守れない。ゆえに、半年後! 卒業パーティーで大々的にジャルトアミィを断罪するのだ」
やに下がるパトリオットを微笑みながら見るマリアは、内心その美しいブルーブロンドの髪を掻きむしりたい気持ちだった。
「リュエミール・ランドアーネスト……3ヶ月前に転入してきた1年生ですね。普通科ですか」
詳細な情報が載った生徒名簿をめくりつつ、笑みを剥がさないままマリアは事務的に確かめていく。
「して、殿下。我らが婚約破棄部にいらっしゃったからには、きちんとした証拠がおありで?」
「証拠? そんなものが必要か? キャンテルイムの王太子たる俺が言っているんだ。それで充分だろう」
尊大に言い放つ、険しい顔の王太子。対するマリアは、切れ長の目を更に柔らかく細めたまま。本来であれば、学園内といえど、伯爵令嬢のマリアはここまで自国の王太子に冷たい態度を取らない方がいい。しかし、学園内でバカ王子と囁かれるパトリオット。実のところ、半数近い生徒は彼に見切りをつけていたのだ。
さらに、この行動。
毎年数件の依頼を受ける婚約破棄部だが、今回は面白いことになりそうだ……とマリアは再び唇を吊り上げる。
「うふふ、パトリオット殿下。ワタシたち婚約破棄部は、明確な証拠と関係者の同意なくしては動けないのです。ですが……もし完璧に揃えられた暁には、お望み通り、盛大に婚約破棄ができますよう、全力でお手伝いいたしますわ。考えてみてくださいな。どうせなら、スムーズに、しかも観衆の盛大な賛辞と共に婚約破棄をなさりたくはありません?」
こてん、と首を傾げてみせれば、パトリオットはわかりやすく視線を上に向け、ふわふわと動かす。恐らく、ジャルトアミィ・ロングータスに婚約破棄を突きつけ、公衆の面前で尊厳をへし折る妄想をしているのだろう。
「うむ。あのジャルトアミィのことだ。屁理屈を捏ねてくる可能性もある。それを事前に潰してこそ、王太子というものだな」
簡単に納得した王太子を見送りつつ、マリア・アンバートは1枚の書類を手に取る。
それにさらさらと記入し、かつての教材準備室に繋がる扉に向け、声をかけた。
「みんな、聞いていて? まさか、ワタシたちの代で、大っぴらに婚約破棄部の活動をすることになるとは思わなかったわね」
「本当ですわね。今までも依頼は時々ありましたが……証拠集めのうちに頭が冷え、元の鞘に収まった方、カウンセリングの結果、解消でいいやと帰っていく方ばかりでしたもの。しかも、王太子殿下だなんて、うふふっ」
「いやいや、案外、王太子殿下というところが面白い。何せ、僕らの故郷でも知られているよ、我ら婚約破棄部の創部のきっかけは……」
「パールバディア公国でも有名とは、キャンテルイム国民として恥ずかしい限りだよ。まあ、いい、私たちは全力を尽くすだけ、……ですよね、マリア部長」
和気藹々と話しながら、王子の来室に気配を消していた部員たちが姿を現す。キャンテルイムの男爵令嬢から公爵令息、隣国の侯爵令息……と様々な顔触れだが、いずれも優秀さで名を轟かせる一方、若干の変人としても有名な面々である。
「そうね、ハルノレイムの言う通りよ。ワタシたちは、婚約破棄部として、精一杯やることをやるのよ」
5人の仲間を見つめ、心からの笑顔を浮かべるマリア。
「ハルノレイム・クロイス公爵令息とワタシは、この書類を持って王宮へ行くわ」
「それならば、不肖、このジェリカ・フランノワール、先触れを務めまーす! いえーい」
ジェリカ・フランノワールは、歴代婚約破棄部では比較的珍しい、従者科の男爵令嬢。部活中に従者役を必要とする際は、大抵ジェリカがその役を務めている。1年生ながら婚約破棄部員に抜擢された期待の新人である。
「ありがとう、ジェリカ」
「わたくしは、20分後から中・下位貴族令嬢のお茶会がありますので、そちらで情報収集を」
「僕は麗しき婚約者との逢瀬が。ご存知の通り、彼女はパールバディアの侯爵令嬢ですからね。殿下やリュエミール・ランドアーネストが他国の貴族令嬢の中ではどう見られているのか尋ねて参りますね」
「2人とも、ありがとう。助かるわ。楽しんできてね」
準備のために退室した2人にひらひら手を振り、ハルノレイムが残りの1人へと尋ねる。
「エレナ先輩はどうしますか? 残るのは先輩1人ですし、今日はもう終わりにしてもいいと思いますが……」
「お気遣いありがとう、ハルくん。私はもう少しここにいるわ。ジェリカが帰ってくるかもしれないし、また誰かお客様が来るかもしれないからね。それか、あのアホウがまた来たら追い払っておくよ」
セピア色の髪をかきあげたのはエレナ・マルトラム侯爵令嬢。ジャルトアミィの幼馴染であり、彼女を気にかけている。そのため、パトリオットのことを「アホウ」と呼んで憚らない。固有名詞を出さなければいい、と。
「まあ、ほどほどにしてね? 殿下が、ワタシたちに頼ろうという気をなくしたら面倒なことになるから……」
苦笑したマリアにウィンクで応えるエレナ。そのどことなくキザな雰囲気は女子生徒に大人気である。とはいえ、エレナの魅力にもすっかり慣れてしまったマリアには効果が薄い。
もう一度しっかりと念を押し、マリアとハルノレイムは王宮に向かうことにした。